「妙法」に「蓮華」がついているって凄いことなんだぜ。〔#225〕

南無妙法蓮華経とは

みなさん、こんにちは。

元気にお過ごしになっていらっしゃるでしょうか。

いや~、ちょっとバタバタしてしまい、ブログの更新がなかなかできませんでしたね。

すみません。


ふとしたタイミングで何かにハッとして、それを記事にしようとメモを取るようにしているのですが、頭の回転が追い付かず、書いている途中で何にハッとしたのか分からなくなった(笑)ということも多く、意味不明なメモ書きがたくさんあります。


加えてバタついている時というのは「日本語」も「英語」も「心の声」も、何語も引っ張ってこれないもんです。笑。忙しいというのは心を亡くすと書くのはそういうことですね。



さて今回のテーマですが、タイトルがまず意味不明ですみません。笑。

いや~、突然ですが「南無妙法蓮華経」って本当にすごい形してるなあと今さらですが思うことが多くなりましたので、記事に書いてみようと思いました。

鳩摩羅什さんにも天台さんにも、大聖人にも伺っていませんので、これは私の勝手な感想です。


「法華経」は「法」の説明をしていますので、呼び名に「妙法」がつくのは何となくわかりますが、さらに「蓮華」がついて「妙法蓮華」としているのが凄いなあと思います。

・・・はい。


なぜなら、「蓮華」がついた時点で、焦点はその法のリズムにのせていく、私たち側になるからです。


「妙法蓮華」で、「法」と「法を動かす側」が一緒に並んでいます。


まるで多宝如来のじいさんと、釈尊が宝塔の中に並んで座っている姿のように、動かない法と躍動する法が、私の命の中に、仏界に冥伏している感じにも似ていますね。



法を動かす側」というのは、確かに蓮華です。

「SGI-USA」が非常に優秀な例えを出しているので、これを参照してみましょう。

蓮華/RENGE— 


文字通りの意味では「蓮の花」。蓮は、種をつけるのと花を咲かせるのが同時であるという特徴をもっています。その特徴から、「蓮華」は、“原因”と“結果”が同時に伴うことを意味します。
Literally, the lotus flower, which produces both flower and fruit at the same time. This represents the simultaneity of cause and effect.

仏法の視点から見ると、私たちは、日常、心(意)、言葉 (口)、そして行為や振る舞い(身)をとおして、未来の結果となる“原因”を作っているのです。
We create causes through thoughts, words, and actions.

そうした善悪につけ作られる“原因”は、その原因がもたらすべき“結果”を伴って、私たちの生命に刻み込まれます。そして、その結果は、さまざまな縁や環境に触れ、しかるべき時に目に見えて現れるのです。
With each cause made, an effect is registered simultaneously in the depths of life, and those effects are manifested when we meet the right environmental circumstances.

ですから、私たちの人生は、未来の“結果”となる“原因”を、一瞬一瞬、創造していく連続作業と言えましょう。
Life itself is an endless series of causes and simultaneous effects.

「南無妙法蓮華経」と唱え、祈ることは、願ったとおりの結果を生み出すための最高の“原因作り”となるのです。  
Chanting Nam-myohorenge-kyo is the deepest cause we can make in order to produce our desired effect.

引用元:-The Winning Life P11-12 SGI-USA-




南無妙法蓮華経はいろんな説明がされますが、その中でもこの蓮華の説明は大変に素晴らしいですね。

この説明でもあるように、「原因」と「結果」が同時にあるということは、瞬間瞬間、「結果」として出てきてしまう「因」を「妙法のリズム」に向けられるかー「妙法蓮華」になるかは、本人次第だということ。だから「妙法蓮華」ははじめから私たち側の話になります。

究極のところ「南無妙法蓮華経」は、この妙法の働きを自分の命で顕していきますという私たちの宣言ともいえますね。蓮華の本体を妙法と並ばせる、その因を自らつくっていきますという誓願と同じです。

だから他の誰でもない、自分の命の中に出していかないといけないということです。


だから「法がすごい」、それを体現できている「大聖人がすごい」と言っているだけでは自分の命は変化していかない。


仏力・法力の妙法に対して、信力・行力であなたの人生で、自分の生活で体現していくー

そんな戦いが必要になるわけですね。

それが「人間革命」という修行の仕方です。

滝に打たれるよりも、ずっとずっと厳しい修行です。


自分の業という磁石は、善のリズムに向かわせる命よりもはるかに吸引力が強い。




原因と結果が同時に存在する「この一瞬」を、どちらの方向に向かわせるのか、

常にその真ん中に立っているのが、「あなた自身」なんだということ。


だからあなたの「今」が妙法蓮華であり続ける戦いが必要なんですね。



万物根源の法の「妙法」に、それを動かす命そのものー「蓮華」がついているって時点で、すでに人法一箇の形をとっています。


仏」という概念を端的にあらわそうとすれば、やはりその呼び名が一番ふさわしい形だろうなぁと思うわけです。

たから、南無妙法蓮華経は仏の名であり、南無妙法蓮華経はあなたのことなんだというわけですね。



ちょっと長くなりましたが、忘れる前に(笑)急いで書き留めてみました。


素晴らしき人生を!



スポンサーリンク