九識論(くしきろん)_nine consciousnessesは何が言いたい理論なのか。 〔#035〕

九識論のイラスト画像



「九識論(くしきろん)」って、何に応用できるのだろうか。


YouTube での解説はこちらから



九識論って何に応用できるだろうか。

それってすごく大切なポイントだと思うのです。

「九識論とは」っていろんなサイトで取り上げていらっしゃって、どのサイトもよく調べられていて本当にすごいなあと思うのですが、

そもそも、何だか小難しいネーミングがついているもんですから、私なんぞは、いろんなことを考える前に挫折しそうになりました。もう、頭ぱっか~んですよ。

理論としては面白いんですがねぇ。しかーし!私はめげませんぞ!

たぶんこういう理論で大切なのは、

「それが何か」ってこと以上に、その理論は「どういう時に思い出すと、物事がすっきり整理できるか」ってことなんだろうなと思うのです。

自分の物差しだったり、引き出しとしてそれを使うことによって、ストンと心に落ちてくると、理論はいきてくる。

だから、知識として理解しようと取り組むよりも、何が言いたい理論なのか、断片的でもいいから自分で考えることがとても大切な作業だと思うわけですよ。

・・・はい。

で、まずなぜよりによって今回「九識論」をあげたかというと、当ブログをご覧になっている方から「ぜひ九識論を取り上げてほしい」というリクエストが入っておりました。(本当にありがとうございます。)

私なんかでいいのか、ずいぶん難しそうだなぁと思い、躊躇していたのですが、

実はつい先日、たまたま座談会で「九識論」が出まして、みんなで大盛り上がりしました。

(無意識に「九識論」を応用しているあたりが、おっちゃん、おばちゃんの教学の深いところです。何で盛り上がったのかブログに書こうと思いましたが、ウケるだろうけどスピリチュアルすぎるのでやめました。笑)

偶然にもそういうことが重なりまたので、せっかくなので皆さんと一緒に「九識論」についておさえていこうと思います。


「人のため」と「自分のため」が実は同じ作用で、結果自分に返ってくるということが分かってくる。


九識論でイメージしやすくなるものとしては、たぶん、

「自分」、そして「自分と他人」、「自分と全て」

そんな関係性が分かりやすくなると思われます。

例えば、十界の理論はあくまでも個々の自分の生命をよくタンスの引き出しのようにイメージするように、

「九識論」はエレベーターのように 自分を最上階から地下階までの流れのようにみえるかもしれません。

イメージしやすいと、納得する部分が多くなるのではないでしょうか。

理解は自分を助けます。

ですから、例えば、

小説人間革命の主題:
「一人の人間における偉大なる人間革命はやがて一国の宿命転換をも成し遂げ、 さらに全人類の宿命の転換をも可能にする。」(A great human revolution in just a single individual will help achieve a change in the destiny of a nation and further, will enable a change in the destiny of all humankind )


「1人」の変化が「全て」を変えていけるというこんな理論が、「そりゃそうだな」って頭にイメージしやすくなるような気がします。

また、例えば「まず、自分を変えるしかない」とか、それとは逆説的に「人のために祈ることが、自分のためになる」とか、

この「人のため」と「自分のため」が実は同じ作用で、結果自分に返ってくるというこの理論。こういうのも「そりゃそうだな」ってわかりやすくなるような気がします。

長々とすみません。

では、みていきましょう。


九識論(くしきろん)/Nine consciousnesses について


九識論は英語でNine consciousnesses といいます。

consciousnessesは「意識」という単語の複数形ですから、

九識は「9つの意識たち」(笑)。

つまり、

9つの「識」の働きでもって、生命は物事を認識するというのです。

それは、どういうことでしょうか。

まず、「識」とは何かというところから見ていきましょう。

9つと言っていますが、そのうちの5つはひとまとまりです。

Today's theme is 'Nine Consciousnesses(kushikiron)'. Kushikiron is Nine Consciousnesses in English 'Consciousnesses' is the plural of consciousness, In other words meaning 'nine different consciousnesses'..? And people recognize things through these nine 'consciousnesses' Though I say there are nine, the first 'five' are actually grouped together.

①-⑤ 五識/five consciousnesses


五つの意識たち、英語でfive consciousnessesといいます。

「眼」・「耳」・「鼻」・「舌」・「皮膚」の五感のことです。

見たり(sight)、聞いたり(hearing)、嗅いだり(smell)、食ったり(taste)、触ったり(touch)して、これは何かとわかる一番最初の窓口のこと。

いずれにしても、何かしら直接的な刺激ということでしょうか。

目隠しをして口にした食べ物を当てるというゲームがありますが、あれなかなか面白いですよね。

「視覚」を遮断されると人は「味覚」が分からなくなるようです。人は視覚的に入る判断材料が一番強いらしいですよ。余談ですが。

let's start by exploring the first five consciousnesses. The 'five consciousnesses', as we call them in English, refer to Eye Ear Nose Tongue Skin While it sounds complicated, it simply means recognizing things through our five senses. These are the direct stimuli we receive from the outside world that help us recognize what something is. So these 'five consciousnesses' are like the initial gateways necessary for recognition.

⑥ 第六識 意識/mind-consciousness


第六識は「意識」と呼ばれまして、

「経験」や「学習」で出てくる意識だそうです。・・「おいしい」とか?

例えば、「りんご」があるとします。

五識で見たり食べたりして、これが「りんご」だとわかります。(わかるって時点で六識なのか?)

ま、細かいことは置いておいて、

「これはりんごですか」と聞かれたら、100人一斉にせーので言っても同じ答えになりますね。つまり、「はい、いいえ」で答えられるもの。

では、

「りんごは美味しいですか」と聞かれて、100人一斉にせーので言っても同じ答えにはならないですね。「はい」、「いいえ」とはならない。

人によっては「美味しい」だろうし、人によっては好きじゃないとなる。そのりんごにもよるし、人によっては生のリンゴは嫌いだけど、アップルパイは好きだとか。

何が言いたいかといいますと、

「りんご」かどうかは五識で判断できるけど、「おいしいかどうか」は五識より言葉がちょっと一段深い部分で判断している。

そう、ちょっとだけそれぞれの個々に深く入り込む、そんな感覚だと思います。

つまり私たちというのは、

「外から刺激として入ってくる情報屋」の五識と、「いういろいろ考えたり判断する実行部隊」の六識で構成しているようです。(勝手にネーミングしちゃった)

私たちは、表面に出てくる自分が「五識」と「六識」なので、一見それだけがその人の全てだと思いがちです。

しかし、外側の条件によって生命状態が変わる、十界の六道と同じようなものです。

つまり、「いろいろ考えたり判断する」六識は、何も外からの刺激や、今までの経験や学習だけで実行しているわけではないそうです。

難しいですが、この六識で判断されるものは、本当は六識のさらに奥深くに入り込んだ層の影響をモロに受けているというのです。

つまり、「六識」はサンドイッチマン。中間管理職のようなものでしょうか。「五識」と「七識」の情報に右往左往します。


ここまで大丈夫でしょうか。。。私は(笑)。

はい。では次の「七識」を見ていきましょう。

The 'sixth consciousness' is referred to as 'mind', and it appears to be the consciousness that arises from our 'experiences' and 'learning'.

For example, we have an 'apple'. At the level of the 'five consciousnesses', we can judge whether something is an apple or not based on stimuli, like seeing or tasting it. (This judgment might be the role of the sixth consciousness…?) Anyway, If you ask 'Is this an apple?' and get 100 people to answer at once, everyone will give the same answer. Basically, answers that can be narrowed down to 'yes' or 'no'." But if you ask, 'Is the apple tasty?’ and again, get those 100 people to answer, the responses will vary. Not everyone will just say 'yes' or 'no'. It will be delicious for some people. Some might find it tasty while others might not, depending on the apple, or someone might say, 'I hate raw apples, but I love apple pies.. So, what I’m trying to say is we can determine if something is an 'apple' with the five consciousnesses, but determining if it's 'tasty' goes a step deeper.. Like it's a bit more internal and unique to each individual.

it's like we have a group that brings in information from external stimuli (The five consciousnesses squad?), Then there’s more like as the ‘judgment executing unit’(The sixth consciousness) And they work together to recognize things, make judgments, and determine our daily actions.

While I said the 'sixth consciousness' is the 'judgment executing unit’, it doesn't just operate based on external stimuli and past experiences or learning. It's directly influenced by even deeper layers. 

So the 'sixth consciousness' is sandwiched between the fifth and seventh (Like ham in a sandwich) Or like middle management. It gets pulled in different directions by the information from the 'fifth' and 'seventh' consciousnesses.

Let's move on to the 'seventh consciousness'!


⑦ 第七識 末那識(まなしき)/mano-consciousness


さて、ここから一気に難しくなってきます。

・・・・・

やめときますか? ぐふっ。

・・冗談です。

実行部隊の六識が、「意識」として表面にあがってくるものだとすると、第七識はその奥にあるもう一段深い層で、自分にもよく見えてこないところ、「無意識」の領域としてあらわすようです。

この第七識の領域のことを末那識(まなしき)といいまして、「思い量る」というサンスクリット語からきているそうです。無意識に思い量る層。

ここでは自我への執着、つまり「私」が働くそうです。

・・・・・

以上ですっ。

って言いたい。

もう、なんだそりゃ!なんですよ(泣)。

なんだそりゃ、なんだそりゃ、なんだそりゃぁぁぁあっっ!

うまく例えれない。

自分そのものがある場所なんですって。

しかも無意識の層にあるので、自分ではわからない自分がたくさん詰まってるってことなんですよ。きっと。

そのわからない自分が、実行に移す部隊にわかならいように奥の方から影響を与えているもんだから、それを「煩悩」と呼んだりして追い払おうをする考え方もあるようです。

確かに、「本当の自分」てもっとこう、デビルマンみたいにドロドロしていると思うのですよ。

(私もね。うひゃひゃひゃっ。・・・はい。)

自分にとってそれってどうなんだ。

自分にとってその相手ってどうなんだ。

っていう量りを良くも悪くも持っているんだと思います。

意識にあがるかどうかは別として、自分の本音の部分が隠されているんだろうなと思うわけです。

そういう本能のパワーってすごく強いエネルギーだと思うのですよ。そういうのが本当はこうしたいという欲求として現れたり、また、そういうのが普段の生活を妨げるものとして見えるから「煩悩」っていわれちゃうんだろうなと。

でもそういう欲求って、悪いエネルギーのように連想されますが、良くにも悪くにも出てくる心の働きだから、全てが自分。「自分」そのものを作っている。

だから、追い払ったら良い欲求も、生きたいと思うエネルギーも、「自分」そのものを追い払っちゃうことになっちゃう。

でも、その七識がどういう働きかけをするのかをもっと深く見ていくには、もう一段深い(笑)、「無意識の自分」に影響を与えている「無意識」があるようなのです。

・・・・

元気ですか?

あたしが。

・・・はい。

では「無意識」の「無意識」、「第八識」をみていきましょう。

Now, things are about to get more complicated… Maybe we should just stop here. (...Hehe I'm just kidding). If the 'sixth consciousness' is the 'mind' that surfaces, then the 'seventh consciousness' is one layer deeper. It's located in a place that's not easily visible to us, like the realm of the 'unconscious’ .

This seventh consciousnessis called 'Manas' (mano-vijnana) which seems to derive from the Sanskrit term for 'pondering' (Mano) It feels like unconsciously pondering… as if a part of yourself that you can’t control is standing there. Sounds a bit scary, doesn't it?  It's like there's another version of you your true feelings and thoughts, and your instinctive reactions It's like they are hidden deep within the ‘six executive unit'. Sounds a bit scary but it's not entirely unfamiliar. Modern psychology says something similar, while it might not be exactly the same, it feels natural to think there's such a realm inside us influencing our actions.

It's sometimes described as 'attachment to the self’. When something happens there's an instinctive, self-centered interpretation that benefits us. That seems to come from the unconscious part.

Is that what they call ‘attachment to the ego'? I know we probably shouldn't feel this way, But the power you feel, like when something is viscerally repelling, is incredibly strong, like a dense energy If this energy were to be released uncontrollably, Could it be so powerful that it interferes with our daily lives. I guess that's why they call these 'afflictions/Kleshas’

'Afflictions/Kleshas’ ...But while these desires are often seen as negative if they're really just strong mental processes that can be good or bad, then they're also the energy that forms 'ourselves', right? It's the thing that both controls us and gives us the determination to keep living. Without it, we'd lose our identities! 

And we need to look at the layer even deeper than the seventh consciousness that influences it After the 'unconscious self', there's another 'unconscious'

Let's now look at the 'unconscious' of the 'unconscious', the 'eighth consciousness'

⑧ 第八識 阿頼耶識(あやらしき)/ālaya-consciousness


はい、第八識は「阿頼耶識」といいます。

自分の「自我」がある七識から、さらに奥にある「阿頼耶識」には一体何があるのでしょうか。

まず、「阿頼耶」とは「貯えること」という意味だそうです。

そこから、「蔵」と訳されるようで、有名な話だと山の名前「ヒマラヤ」。ヒマラヤは雪「ヒマ」と、蔵の「アヤラ」を組み合わせてヒマラヤ、「雪の蔵」という意味を持っています。

で、自我の奥に何を貯えているかというと、それは「業」なんだそうです。

自分の奥には「業」が隠されている。

「業」は宿命転換のコラムで書いておりますが、仏法的には生命自体は生まれ変わるとされています。そして、「業」は過去からずーっと引き続き、持ち続けているとされます。

つまり、死んだら個が亡くなるので七識まではなくなりますが、その下の八識(阿頼耶識)の層、つまり「業」は貯えたままなんだそうです。そして、何かのはずみでまたポコんと誕生して、またポンとなくなる。なんだかモグラたたきみたいですね。(失礼)

ですから、自分の「業」一つとってみても、「自分」ってもっと奥深いんですよね。

悩み一つ、何でこんなことが起きるのかって、自分の今に原因が見当たらない場合でも、自分が一番苦しむ、そして傷つくような出来事が、場所が変わっても、人が変わっても、逃げても、自分から発せられるのだとしたら、それはやっぱり自分の「業」からきているんだということが嫌でもわかったりする。

これも、宿命転換のコラムで一緒にみていきました。

また、さらに難しいことを言いますが、

自分の奥にある阿頼耶識と、隣にいる人の阿頼耶識、みんなの阿頼耶識は合流しており、つながっているそうです。下水道みたいに。(あれ?なんだか例えが悪いな)。

だから、例えば夫婦で「なんで旦那はこうなんだろう」と相手を指さして、相手の業だなんだと言ってても、言葉をかえせば、そんな旦那で悩む自分の業でもあるし、なおかつ、自分が祈れば、自分でも相手でもある業に作用するという理論がイメージしやすい。

相手の業を非難するイラスト


だから、自分に祈ることも、他の人に祈ることも、結果「人のため」と「自分のため」が同じ作用で、結局自分に返ってくる、とこんな感じです。

もう一度、小説「人間革命」の主題をみんなで見ていきましょう。

「一人の人間における偉大なる人間革命は やがて一国の宿命転換をも成し遂げ、 さらに全人類の宿命の転換をも可能にする。」(A great human revolution in just a single individual will help achieve a change in the destiny of a nation and further,
will enable a change in the destiny of all humankind )

人間革命という宿命転換の理論は、一人の人間革命が他の全てを連動させていく、最も確実な、そして壮大なチャレンジなんだと思うのです。

さて、この業のエネルギーを転換するために必要なのは、さらにその奥にある、業のエネルギーとは全く違う層をみていく必要があります。

それが最後の「九識」になります。

the eighth consciousness is called "ālaya-consciousness’. Let's look deeper into what lies within the Alaya-consciousness, beyond our "ego" known as the "seventh consciousness. Firstly, ‘ālaya’(Sanskrit) means "to store." From there, it is also translated as "repository"...It's a common example, the Himalayas are named by combining the word for snow, "hima," and the word for repository, "alaya." So, the Himalayas essentially mean "repository of snow.

Now, if we were to explore what's stored deep within our ego it's believed to be "karma." It is perceived that "karma" is hidden deep within us. I featured “karma” in my other video and I explained it in great detail so that anyone can understand. Perhaps they should watch that for reference.

In simple terms, according to Buddhism, though life reincarnates, the karma one accumulates is believed to be carried over even after death. This means it is continuously retained from the past into the present. In other words, when the current life’s activities cease, meaning that ‘individual’ passes away, everything up to the seventh consciousness disappears becomes flat.

But the deeper layer, the alays-consciousness essentially the ‘Karma’, remains stored as it was Then at some point, it pops up to be born again, then pops out of existence again. Like a…whack-a-mole.

Just by looking at "karma,". Life isn’t just superficial. It's really profound. It makes you realize how deep the concept of "self" is.

And...oh yes! Also, though it's a bit complicated, I'll mention...it's believed that our Alaya-consciousness, the one of the person next to us and everyone else's, all converge and are interconnected. it's connected to oneself and it merges with everyone else's...like a sewage system..?

So for example, if a wife wonders, "Why is my husband like this?" and points to his ‘karma’ as the reason, It ’s also her own ‘karma’ that she’s suffering from such a husband. the idea that by praying, We can influence the karma of both ourselves and others become much more naturally understandable So, whether we pray for ourselves or for others in the end, the effects benefit both "others" and "oneself." This logic makes it clear that everything eventually comes back to us. 

The famous theme from the novel "Human Revolution" is easy to understand in this light.

"A great human revolution in a single individual will help achieve a change in the destiny of a nation, and further, will enable a change in the destiny of all humankind."

The revolution of one individual sets everything else in motion It's the most certain and grand challenge. And to transform this karmic energy, it's necessary to look into a completely different layer, deeper than the energy of karma.

That leads us to the final "ninth consciousness Finally!

 第九識 阿摩羅識(あまらしき)/amala-consciousness


ここは、意見が分かれるところです。

なぜなら宿命転換の理論、「業」は変えられるという理論に基づかないとこの九識が「業」の奥の層にあるとは考えにくいんじゃないかと思うのです。

阿摩羅識の阿摩羅(あまら)とは、汚れのない(pure or undefiled)という意味をもつそうです。

ですので、別名、根本清浄識(こんぽんしょうじょうしきfree-of-defilement consciousness)とか無垢識(むくしき/ pure consciousness)とも言われます。

つまり、どんな生命の「業」にも左右されない場所ってことです。仏界とはここをさすようです。

だから、実行部隊の六識がどう動くことで九識が発動するのかが分かれば、様々な業(八識)も自分の我(七識)もオセロゲームのように黒い目から白い目に、マイナスがプラスの因になるよう変えていくことができる。


表面に現れている姿だけ見てれば欠点も多い私たちがなぜ信仰しているのか、そして何故うちのおかんがべらぼうに強いのか、ここの部分だと思います。  

自分の中には確実に九識があるんだとー。

このように捉える考え方の方が、個人的には好きですね。

自分に仏界があることがイメージしやすくなります。私にもあるし、みんなにもある。

自分の心の断面図をみているようです。

ということで、少し長くなりましたが、

今回は九識論をご紹介してみました。

どうでしたでしょうか。


最後に、実行部隊の六識をフル回転させて、私たち学会員が朝晩、毎日御祈念する項目があります。

それを皆様にご紹介して終わりにします。

・・・・・・・

「世界の平和と一切衆生の幸福のために。」
"I pray for peace throughout the world and the happiness of all humanity."

素晴らしき人生を!

This is a point where opinions might diverge That’s because, without the theory of changing one’s destiny, or idea that ‘karma’ can be transformed It’s hard to imagine that this nine consciousness lies deep within the layer of karma....

The term "Amara" in "Amara-consciousness" means “pure or undefiled” Thus, it's also referred to as the “free of defilement consciousness” or “pure consciousness” Essentially, it's a place that is unaffected by any life's karmic actions. An easy way for us to picture it might be the workings of the Buddha or the realm of the Buddha.

Looking at it this way, it's easy to see how vital the sixth and ninth consciousnesses are. How so? The sixth consciousness is the one that, based on external stimuli or internal influences, makes judgments and actually moves things forward. If we can grasp that the ninth consciousness exists deep within us, and understand how our actions can cause the ninth to activate and influence the sixth, then we can turn various karmas (eighth consciousness) and our ego (seventh consciousness) from negative to positive, like flipping pieces in a game of Othello.

Nichiren said, “If you think the Law is outside yourself, you are embracing not the Mystic law...” When you look at it from the perspective of the ninth consciousness theory, he's absolutely right.

We can change because the Law exists deep within us, within our lives!! While our superficial selves might have many flaws, the reason we believe in this is we're trying to tap into the ninth consciousness with our sixth and play this game of Othello within our own life.

“base your mind on the ninth consciousness, and carry out your practice in the six consciousness...” In the practice of faith, It’s most crucial to manifest the workings of the Buddha deep within us in our real lives. Merely knowing the ‘theory’ of the ninth consciousness is meaningless If we don’t truly understand and live it! Within the depths of our lives, we each inherently possess boundless life force and a wellspring of infinite wisdom. Faith allows us to freely tap that inner life force and wisdom.

Mr. Toda often used to say: “What’s inside you comes out. What’s not there, won’t. The strong and pure state of Buddhahood and the weak and base states of hell, hunger and animality all exist within our lives and are manifested in response to causes and conditions in our environment. Since life is eternal throughout the three existences of past, present and future, our past karma may also assail us in the present in the form of some major problem or suffering. However, just as the cause of suffering lies within our lives, we also possess the power to transform our suffering into happiness. This is the power of the life state of Buddhahood. As Mr. Toda declared, ultimately human beings are the product of what lies inside them, no more, no less.

Lastly, activating our sixth consciousness, the ‘executive unit’, to its fullest, there’s a prayer that all SGI members consistently recite every morning and evening. As a concluding silent prayer, I’d like to introduce it to you!

"I pray for peace throughout the world and the happiness of all humanity!"




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