現実の生活を離れることが立派なわけじゃない。〔#255〕

仏教とは
自分で食べるからこそ意味がある。


世間への執着を捨てて、仏門に入ることを『出世間』というが、
人びとを救うために広宣流布をしていくには、さらに『出世間』を離れ、再び、世間という現実社会の真っただ中で、戦っていかなくてはならない。つまり、『出出世間』だ。
実は、そこに、本当の仏道修行があるんだ。だから、〝社会に根を張って初めて広布〟なんだよ

“Abandoning attachments to secular life and entering Buddhist orders has traditionally been referred to as ‘abandoning the world,’ but in order to carry out kosen-rufu to help people find happiness, one must also abandon this idea of abandoning the world, and enter into the very midst of the reality of the world to make efforts there. In other words, we need to ‘abandon abandoning the world.’ This is, in fact, the true practice of Buddhism. That’s why I have suggested the headline ‘Being Firmly Rooted in Society Is Where Kosen-rufu Begins.’”

新・人間革命第24巻「灯台」294㌻ The New Human Revolution vol 24, Beacon, p263
みなさん、こんにちは。

今回は、こんなちょっとしたことですが、本当にそうだなと思うものを皆さんにご紹介してみました。

どうでしたでしょうか。

さくっと書かれていますが、とても大切な視点ですね。こういうところが結構他の人から分かってもらえないところでもあり、しかもとても重要な部分だと思います。

世間への執着を捨てて、仏門に入って厳かに、そして厳しい修行をしていく。こっちの方が何か仏教徒らしいし、真摯に向き合っている感じがしますし、個人的にはむしろそうしたいところですが(笑)、人の苦悩は現実の生活の中にあること、ここが重要です。

今いる場所で、自分の人生で、自分の現実に、自分が直接関わっていき、主体的に動かしていくことの方が、何倍も難しい。

でも、仏教徒は本来そうあるべきで、法華経も、大聖人の仏法もそう実践して、はじめてそこで説かれていた「法」が動き出すように思います。仏の教えとは、仏を崇めることという意味ではなく、釈尊をも仏にさせる力のある法を、自分が実践するのだという意味だと思うのです。

法華経も、大聖人の御書も、人間革命の小説も、全て己が実践する上での解説書としてあなたを支え続けるから学ぶのです。他の人が「最高の料理」を堪能していて、その料理がどれだけ素晴らしいか説明できるすごい知識をいくら身につけようと、素直に食べている人にはかなわない。

戸田先生は「『わかる』ことより『かわる』こと/ "changing is more important than understanding." 」であるとよく言われていたそうです。

現実世界を離れ、世間一般の悩みを分かってあげることより、現実の荒波の中に自分自身も揉まれ、苦しみにおちいる因となっている自分の弱さを変えていく。そんな戦いを一緒にしていく。

わかるよりも、自分がかわり、自分と他人にどうかかわっていくのか。

修行というのは、現実社会と一体である。

つまり、信心即生活(Faith equals daily life)

このように捉える方がやはりしっくりきます。


素晴らしき人生を!




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