本来の自分を呼ぶ仏の言葉 〔#256〕

創価学会の仏法。実相を呼びあらわす仏の言葉
呼び呼ばれて。


「我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば経の名にてはあらずして・はや我が身の体にてありけると知りぬれば我が身頓て法華経にて法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければ・・・」(御書 p411)

妙法蓮華経とは経典の名前だろうと思っていたら、そうではなかった。自分自身のことだった。妙法蓮華経は、本来の自分(自身の実相)を呼び顕す仏の言葉なのだと。

once we have come to understand that Myoho-renge-kyo is not the name of a sutra but is the entity of our own lives, then we will see that our own lives are in fact the Lotus Sutra, and the Lotus Sutra is none other than the sacred word preached by the Buddha in order to make manifest the entities that are our lives.
引用元:法華経の智慧(1)/The wisdom of the lotus sutra vol Ⅰ

みなさん、こんにちはー。

なかなかブログに時間を取れなく申し訳ないのですが、たまに、しれっとUPしておりますので(笑)、これからもよろしくお願いいたします。

さて今回は、みんなの大好きな『法華経の智慧』から、御書の一文と、要約のようなものをご紹介してみました。

要約があるとさらにグッと深く入ってくるので、ありがたいですね。

今回の話の内容は、前回、前々回とダブっている部分が多々ありますが、何度でも新鮮な気持ちで書けるもんです。ぼけたんじゃないですよ。

「法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言」


大聖人のこの表現の仕方、これが実に見事で引き込まれます。

法華経から、この真意を取り出せる大聖人は単純にすごいなと思ってしまいます。

あ、そうそう。

法華経は、実は読めばそんなに難しいストーリではありません。ですから、ご興味がおありでしたらぜひ読んでみて頂くことをお勧めします。

しかし、読まれた方ならご存知かもしれませんが、

ただつらつらスペクタクルアドベンチャーの物語として読むことと、真意がわかることは次のステップに行く上で異なってきます。

どういう意味?

法華経の中では、仏がいかに素晴らしいものなのか、そんな仏の力の数々を、これでもかと見せています。

この法を『受持』すれば、誰でも仏と同じ命が出せるのですよ、いつの時代に登場する仏も、この同じ法を持っているんですよ・・・

これを、何度も何度も仏は説くのです。

空中に浮いちゃったり、舌が天井まで伸びちゃったり、眉間からビームが出ちゃうことに気をとられて、この仏の概念をスルーしてはいけません。

つまるところ、法華経というのは、釈尊をも仏にすることができた、この「法」の話をしているのですよというところです。ここが大切です。


仏が持つ法で、人を仏にさせる、命の中に潜んでいるのもまた、この法なのだと。

仏様は凄い。精神を安定させてくれる。ありがたい。そのようにだけ捉えることは、仏の本質までたどり着けていないことがわかります。

さらにもう一歩進んだところ、自分の命に自分がどうかかわっていくのか、苦しみに引きずられる命の奥にある、この仏の命をどうしたら取り出せるのか。

法華経の、仏法の実体はそこにあるからです。

それを導き出した答えへの「信」、そして「確信」が「受持する」という意味になる。

だから、私たちは釈迦ではなく、日蓮仏法を信仰しているというわけです。

なぜこの法の呼び名が「南無妙法蓮華経」なのか、なぜ日蓮がたましいを墨に染め流して御本尊という形にしているのかは、話が長くなるのでここではやりませんが、(過去の記事でここらへんをごにょごにょ書いていますので、ご興味ありましたらご参考ください)

過去記事



ここが何となく分かれば、例えば御本尊も、

「功徳を与えるもの」ということというより、「私の命から仏の命を呼び出してくれるもの」という表現の方がより相応しいかもしれませんね。


呼び出せるようにしてくれているからありがたいのだという事。

つまり、どこまでも自分ですね。自分が御本尊の前に座らなければ何も動きません。

自分の中にあるものを出す戦いだから、自分が本因だということが分かります。だから、本因妙の仏法だと言われます。

この呼び出せる「方途」を持ち、日々実践していく。目の前にある自分の現実に、どう行動し、どう結果として出しているのか。ここを実践するのが一番難しい修行です。

法華経をただ読むだけなら読者です。理論にとどまり、ああだこうだ言っているだけならただの評論家です。法華経の行者であり続けること。

法華経が分かるとはそういうことです。


素晴らしき人生を!




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