大聖人は、
Nichiren Daishonin writes:
「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外《ほか》の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云云」(御書1143㌻)一切の衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱えるより外に、遊楽はないのである。経(法華経の寿量品)には「衆生の遊楽する所」(創価学会版法華経491㌻)と仰せである。
“There is no true happiness for human beings other than chanting Nam-myoho-renge-kyo. The [Lotus Sutra] reads, ‘. . . where living beings enjoy themselves at ease’ ” (“Happiness in This World,” WND-1, 681).
あえて分ければ、
“Enjoy themselves at ease” here means
「遊」とは、人生を自在に生きていくこと、
being freely able to live the kind of life one desires
「楽」とは、人生を心から楽しむこと、といえるかもしれない。
and wholeheartedly enjoying that life.
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私の支部に、
つるっぱげのおじいちゃんがいます。
ハゲているかどうかは別にどうでもいいのですが、
私はこのおじいちゃんを本当に、心の底から尊敬しています。
今も、この瞬間も、仏法対話ができる人がいないか。
今、この瞬間の戦いをしています。
そう、「今を生きている人」なのです。
私は常に、彼の一挙手一投足、その生き様を、
神々しいうしろ姿を、じっと見ています。
私はどうしてもまだ若く、軟弱で、
ちょっとした事でとても苦しく感じることがあります。
自分のキャパは自然には広がっていきません。
自分の狭い狭い心を、
辛くてもグーっとグーっと押し広げていくしか方法はないのです。
このおじいちゃんは長年の役職を次の世代に渡し、
プロボクサー並みのフットワークで駆け回っています。たまに杖をつきながら。。
やっぱり、本当の意味で鍛えた人は動きが違うのです。
若い時に死のうとしていたことなんて、想像もできない今の姿。
長年の役職がその人を鍛えに鍛え、
どんな会合に参加してもそれ以上のことができるキャパがあるから、
どんな会合でも、どんな人が集まってても、
いつでも自然体で、
本当に楽しそうに、心が躍っているのがすぐわかります。
自由自在。
最近、
ああこういう姿が人生、最高に楽しんでいる姿なんだなあと思うのです。
だから私も、
今まで何をしてきたかより、
今、何をしているのかを語れる人でありたい。
「過去の自分」が「今の自分」をつくりだしたのなら、
自分が望む「未来の自分」は「今の自分」からしかつくりだすことはできない。
こんなのさんざん言われていることだけれど、
これを本気で実行できる人は、結構少ない。