目には目を。仏には仏を。〔#251〕

なぜ仏法対話をするのか



仏種は縁に依って起こる(1467㌻)
the seeds of Buddhahood sprout through causation(WND-1, 1117)


..仏の性分は、仏縁によって発動するからです。
だからこそ、仏法対話をするのです。
それが必ず、相手の仏性を呼び覚ます最極の縁となるのです。

..because the Buddha nature is activated through forming a connection with Buddhism.
This is why we engage in Buddhist dialogue—
because it creates the best possible conditions for bringing forth the Buddha nature in people’s lives.

世界を照らす太陽の仏法(大白蓮華9月2018)/THE BUDDHISM of the SUN ILLUMINATING the WORLD  1 Jun 2019 Living Buddhism

はい。みなさん、こんにちはー。



お元気にお過ごしでらっしゃいますでしょうか。


そういえば何か自分の中で、

「当たり前って言っちゃ当たり前なんだけど、そういわれてみれば、確かにその通りだな」と思うことに、たまに出くわすことがあります。

今回は、まさしくそんなこと。

大聖人が残してくださったこの一文。

ー仏種は縁によって起こるー

何か、ビビッときましたね。笑。


ある意味、私たちの命というのは「因のかたまり」のようなもので、

生きていくうちにさまざまな縁となるものに自分の因がぶつかり、姿、形となって表にでてきます。

何か自分にとって苦しい出来事が起きたりすると、

出来事そのもの、あるいは苦しみを与えている相手かどれだけ悪いかというところに目がいきがちだけれど、

そういう結果として表に反射させたあなたの「因」というのが必ず隠されているということです。(→怨嫉の本質〔#107〕という記事でもうちょっと詳しく書いています)


「仏種は縁によって起こる」というのは、こういった原理から来ていますね。


命の中にある「仏の因(仏性)」を表に出すには、「仏の縁(仏縁)」をぶつけていく必要があるということです。

御本尊や題目も、自分の仏性を出す仏縁の働きをしますし、こういう先生の指導も全部自分にとっての仏縁の働きをしてくれる。

学会活動という仏縁と接する時、それぞれの人はそれぞれ自分が持っている因とぶつけていくことになるわけだから、いろんな感情が表に出てくることもあります。

でも、よく言われるように、自分の因のなかに潜んでいる不純物が活動によってバンバンたたき出されてくるからなのが、ちょっとした仏縁でも仏性をパーンと出しやすくなるということもありますね。仏性がすぐ出やすい命にさっさとしてしまった方が、悠々と楽しく活動ができます。


そして、自分が仏となって、仏と同じ行動を起こすことで、出会う人にとっての最強の仏縁となることもできる。


仏の因はだれでも命のなかに潜んでいる。


「仏種は縁によって起こる」なら、その仏縁を届け続けよう。


種にとって、それは水となり、光となり、養分となって、


いつの日か、

必ず地上を目指して表に芽吹いてくる時がくるのだから。



素晴らしき人生を!




スポンサーリンク