身から出た錆。 |
魔とは、正覚への求道の心を悩乱させようとする煩悩の働きである。
それは、世俗的な欲望への執着となって生じることもあれば、
それは、世俗的な欲望への執着となって生じることもあれば、
肉体的な飢えや眠気となって現れることもある。
あるいは、不安や恐怖、疑惑となって、心をさいなむこともある。
そして、人間はその魔に惑わされる時には、必ず
そして、人間はその魔に惑わされる時には、必ず
自己の挫折を、なんらかのかたちで正当化しているものである。
しかも、それこそが、理に適ったことのように思えてしまう
しかも、それこそが、理に適ったことのように思えてしまう
Demons or devils represent the workings of earthly desires and illusions attempting to unsettle the mind of those who seek the way to true enlightenment. Sometimes devils arise in the form of our attachments to worldly desires, or appear as the physical cravings of hunger or sleepiness. At other times, they torture the mind in the form of anxiety, fear and doubt.
Whenever people are led astray by such devilish functions, they invariably justify their failing in some way. Furthermore, they convince themselves that their justification is perfectly reasonable and natural.
魔は「親の想《おもい》を生《な》す」(御書917㌻)といわれるが、
往々にして魔は、自分の弱さや感情を肯定する常識論に、
すがる気持ちを起こさせるものだ。
devilish functions cause people to clutch at some seemingly reasonable conclusion that vindicates their weaknesses and emotional needs. Nichiren warns of this, citing the words, “The devil will watch over him like a parent” 10 (“The Actions of the Votary of the Lotus Sutra,” WND-1, 770).
引用元:小説『新・人間革命』第3巻「仏陀」/The New Human Revolution, volume 3, “The Buddha” chapter,
「魔」というもの
魔というものはある意味、自分に一番合った形として現れてくるからこそ、一番見破りにくいということがあるかもしれませんね。
どんなに活動家であろうと、何だろうと関係なくこの魔とは常に背中合わせにあるということを決して忘れてはいけないところです。
そして気をつけなくてはいけないことは、「出来事」に自分の魔の感情がのっかると非常に厄介で、本当に曇って前が見えなくなるということ。
感情がその出来事に色をつけ、自分なりの見解が出来上がり、自分が一番しっくりくるストーリーにしてしまいがちです。
まあいずれにしても何かが起きた時に、自分の中での落としどころを見つけないといけませんので、誰かからどう言われただの、その反論やらなにやらの感情をベースに自分のストーリに組み立てるより、自分が得になるように持っていけれるようにすればいいのではないでしょうか。
つまり、何かに注意されたら、その言われたどこかの部分を自分なりに改善していけば自分はもっとパワーアップするのであれば、どう注意されたかとか、その言われ方にむかつき続ける必要はもうありません。
言ってきた人の配慮がたりていないだとか、言った相手の出来ていない部分など、そこまで気にならなくなるから不思議なもんです。
それをしたら自分にとって得なのかどうか。言われたことの得な部分は何だろうか。自分がもっと凄くなるパーツを見つけることに集中する。
また、例えばどうしても学会員同士で愚痴ってしまいたいときは、以前書いた#怨嫉の本質〔#107〕という見方も参考になるかもしれません。
あまり何も考えずに雑談するような感じで書いただけですが、反響が凄いのです。笑。
どんなに活動家であろうと、何だろうと関係なくこの魔とは常に背中合わせにあるということを決して忘れてはいけないところです。
そして気をつけなくてはいけないことは、「出来事」に自分の魔の感情がのっかると非常に厄介で、本当に曇って前が見えなくなるということ。
感情がその出来事に色をつけ、自分なりの見解が出来上がり、自分が一番しっくりくるストーリーにしてしまいがちです。
まあいずれにしても何かが起きた時に、自分の中での落としどころを見つけないといけませんので、誰かからどう言われただの、その反論やらなにやらの感情をベースに自分のストーリに組み立てるより、自分が得になるように持っていけれるようにすればいいのではないでしょうか。
つまり、何かに注意されたら、その言われたどこかの部分を自分なりに改善していけば自分はもっとパワーアップするのであれば、どう注意されたかとか、その言われ方にむかつき続ける必要はもうありません。
言ってきた人の配慮がたりていないだとか、言った相手の出来ていない部分など、そこまで気にならなくなるから不思議なもんです。
それをしたら自分にとって得なのかどうか。言われたことの得な部分は何だろうか。自分がもっと凄くなるパーツを見つけることに集中する。
言っているお前がどうなんだよとつい言ってしまいたい時の対処法として便利ですよ。
あまり何も考えずに雑談するような感じで書いただけですが、反響が凄いのです。笑。
怨嫉って、実は自分の「影」の事なんだ。
自分そのものを指しているんだよ。
この人にあんなこと言われた、
こんなこと言われた、
なんでこの人はこうなんだって、
そう思う真っ当な理由はいくらでも思いついても、
そこにブレてしまう「自分」のこころの「影」だってことに気づく人は少ないの。
「英語で創価」怨嫉の本質〔#107〕
それでも傷ついちゃって沈んでるあなたへ
それでも傷ついちゃって沈んでいるあなたに、最後にスペシャルな名言をお届けしましょう。
何度も何度も傷つけられたら、
When people hurt you over and over
相手を紙やすりだと思えばいい。
think of them like sand paper.
多少、擦り傷は受けれど、
they may scratch and hurt you a bit
自分はピカピカになり、
相手は使い物にならなくなる。
but in the end,
you end up polished
and they end up useless.
クリス・コルファー
Chris Colfer
日本語訳:tabi-labo.com
ピカピカなあなたに、この言葉を捧げます。
どうか素晴らしき人生を!
どうか素晴らしき人生を!