伝え方革命 〔#285〕

伝え方を考えよう
言い方、伝え方を考えてみる。

「自分中心の祈り」でもよいのでしようか。
Is this true even of self-centered player?


それは仕方がない。自分中心が凡夫の常です。凡夫のありのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばよい。無理に高尚な格好をしても、それは、「うその自分」です。うそは御本尊に通じない。
Ikeda: It is human nature to think of oneself. The important thing is that we go to the Gohonzon just as we are. If we put on an air of nobility, as if all our concerns our lofty ones, then we are presenting a false self. The Gohonzon does not respond to lies.

自分が一番悩んでいること、一番願っていることを唱題に託していけば、自然のうちに境涯が開けていく。
When we chant daimoku about the greatest worries and our deepest wishes, or state of life improves,

だんだんと、自分のことだけでなく、友の幸せのこと、広宣流布のことを祈れる自分になってくる。また、そういう大きい祈りに挑戦することも大事でしょう。全部、自分の自由です。
And we gradually develop the mind to pray not just for ourselves but for the happiness of our friends and for Kosenrufu-rufu. Also, I think it is vital to challenge ourselves to pray for such lofty goals. It is all up to us—We are free to pray about anything we wish.
引用元:法華経の智慧(6)/The wisdom of the lotus sutra vol Ⅵ


伝え方をみていこう。


「自分中心の祈り」でもいいのかという質問に対する先生の回答、どうでしたでしょうか。

私はこの回答でぜひ皆さんも参考にしてほしいのが、先生の「伝え方」です。


この質問。回答がもし後半部分だけだったらどうなるでしょうか。

質問:「自分中心の祈り」でもよいのでしようか。

回答:「境涯を開いて、友の幸せのこと、広宣流布のことを祈れる自分に、そういう大きい祈りも挑戦していきましょう。」




結論部分は確かに同じなのですが、先ほどの先生の伝え方で持っていくのとでは、受ける印象はだいぶ違いますね。


ここで大切なこと。


何が違うのかというと、「質問者を安心させる」というところだと思うのです。

「境涯を開いて・・・」という話からスタートさせると、境涯を開いていない自分、こんなことを質問している自分はいけないんだと思わせてしまうかもしれません。

どんな状態の自分でも受け入れてくれる、どんな状態の自分からでもちゃんと方向性を見せてくれる。

ああ、そうしてもいいんだ、そうしていけばいいんだと、まず安心させてくれる。

「安心させる」という温かいまなざしこそが、実は人を納得させる一番大切な部分なんだということがわかる例として、今回はこの先生の回答をご紹介してみました。

こういうのは是非みんなで見習っていったほうがいいですね。


ハッスルしている時は要注意



ともすると、自分が一生懸命やっているからといって、他の人に対しても、つい強めの言葉使いで、強めに伝えてしまうということをついやりがちです。

今回のように、自分中心の祈りでもいいですか?と聞かれ、「それは仕方がない」(笑)とほほ笑むところから話をスタートできる人はどのくらいいるでしょうか。

特に自分が一生懸命にハッスルしている時は、そんなつもりじゃなくても他の人を責めているように聞こえがちです。

どう伝えたらいいのか。先生のこんな回答をたまに読み返してみると、一番大切なところが見えてくるかもしれませんよ。

言い方、伝え方の革命。

温かい輪に人は集まってくると思うのです。


素晴らしき人生を!




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