"蓮はきよきもの泥よりいでたり"
The pure lotus flower blooms out of the muddy pond
十字御書 P1492/New Year’s Gosho p1137
「蓮の花」と「泥」
今回は、有名な十字御書から、「蓮の花というのは清らかですが、泥の中からで出ているんですよ」という御文を英語と一緒にお届けしております。
泥の中から出る美しい花。
人はそこから、汚れに染まらない仏の「清らかさ」や「力強さ」を連想しますね。花は崇高で美しくあり、仏もまた荘厳であると。
しかし、ただその花だけ切り取り、綺麗だなと思うだけなら、言わんとしている部分が見きれていないということになります。
同様に、荘厳さだけを切り取ってしまったら、仏も同じということですね。
蓮の花も、仏も、「泥水」という設定条件が必要なのです。
以前、池田先生は小説「新人間革命」の中で、「仏とはどういうものなかのか」についてこのように表現されていました。
仏は、どこか遠い彼方の国にいるのではない。娑婆世界という現実の、この社会にいるのである。仏は、悩み、苦しみ、喜び、生きる、人間の生命のなかに存在するのである。『新人間革命(1)錦秋』
Buddhas do not exist in some far-off realm; they dwell here in this very real, strife-ridden saha world. A Buddha dwells within each living, breathing human being who experiences problems, sufferings, and joy. The New Human Revolution vol.1 "Golden Autumn”
ーー蓮の花は泥中から。仏は命の中からーー
清らかさというのは切り離して考えるものではなく、どこに存在するものなのかというところを含めていかなくてはいけないということ。花も仏も理屈は同じになります。
濁った水でも清らかな花を咲かせることができるのか、濁っている水だからこの花を咲かせることができるのか。ここらへんも、実に奥が深いところですね。
「蓮華」は自分の現実の中に咲かせる花
蓮の花を咲かせる濁った「泥水」は、何も「悪世末法」という大きい言葉に置き換えなくても、先生のおっしゃっているように自分の話の中でいくらでも表現することができますね。
『自分の「現実」の中で、自分の「現状」という泥に浸かりながら、自分の「命の中」から仏の働きを出していく』ということです。
写真で見るような鮮やで清らかな花というのは、綺麗ごとを並べているだけじゃ咲かせることはできない。表面的な安穏だけでは花は咲かない。
花の下には、仏の働きの下には、必ず濁りがあるのだということ。
お金が無くてみじめな気持ちになったり、仕事で辛いことがあったり、人間関係で心が痛んだり、不安がったり、悲しんだり、傷ついたり、自分の思い通りにはなかなか進んでいかない日常。
誰でも持っている自分の悩みの「濁り」を「祈り」にかえて吸い上げることで、花を咲かせるための必要な養分と水にさせることができる。
濁りは祈りのフィルターを通すと花の養分になるということ。
自分という蓮の花、あるいは自分の中にある仏性を働かせる場合も同様です。
「蓮の花」と「祈り」というのは共にあるということ。
ここも大切なポイントですね。蓮の花の例えを完結させるには、この2つの要素がどうしても必要になってくるからです。
この2つの要素を端的に表した言葉
つまり、「仏とはどういうものなのか」を端的に表すには、この2つの言葉が入った形が一番ふさわしいことになります。
蓮の花の本体と祈りの本体、つまり「人」の作用と「法」の作用がワンセットになったときに、その働きが表れてくるというわけです。
ですから仏の働きを表現する時は、必ず「法」と「人」が同時にならび、「妙法蓮華」の形をとるのです。
「法華経」はこの「妙法蓮華」の解説をし続け、「妙法を自分の命で働かせていく者」を待ち、
「日蓮」は弟子の四条金吾に、あなたは「法華経の命を継ぐ人」だと伝えたのです。
法華経も日蓮も皆、同じことを言っているに過ぎないのです。
どうか素晴らしき人生を!
追伸)
ちなみに、以前こんな記事を書いています。
今回の話とワンセットで見て頂くと、もっと分かりやすいかもしれません。