~すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩~
ゲーテ『ファウスト』
All that is changeable is but an eternal parable
-Goethe's Faust
ゲーテ『ファウスト』
All that is changeable is but an eternal parable
-Goethe's Faust
戸田先生の「仏とは生命である」というのは、私たちにとっては非常になじみのある言葉ですが、
残念ながら世間一般にはまず浸透していませんね。
でも、難解な仏法用語も、法華経も、この視点から掘り下げていくと、私にも何となくわかってくるような気がするので不思議なものです。
仏法用語も、なにもかもがすべて、私にかかわってくる、私の話になっていきます。
仏法を自分の命にみていくという仏の捉え方は、それだけすべての核心をつくもので、生きた働きとして自分の姿の中にあらわれてきます。
この視点は、点在している先人たちがつかんだピースでさえ、命の働きの解説をするものとして蘇生し、さまざまな方向を向いていた話が、生命という急所をついた糸で通されてつながっていきます。だから何となく分かってくる気がするのでしょう。
「仏」とは、自分とは別のもので、常に動じず、永遠に常にそこにある穏やかなイメージを持ちますが、残念ながらそんな仏の永遠性は、他でもない、移ろい変わり、断続的に見える私たちの命に現れてくることになります。
たいぶ不安定な(笑)場所に永遠性があるもんですね。でもそういうことです。
だから個の命と仏の永遠性をつなげる南無妙法蓮華経の糸を持っていると、中に潜んでいる永遠性が自分に現れてくるパイプのような役割をしてくれる。日常の生活の中で、姿、形となって現れてくるさまざまな現象の奥に、糸で仏とつなってくるイメージです。
諸法実相
ナイスコンビ! |
法華経に、「諸法実相」という言葉がありますが、
唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相/The true entity of all phenomena can only be understood and shared between Buddhas.
仏と仏だけが諸法(現象)の実相(真実の姿)を「究め尽くしている」とあります。
南無妙法蓮華経の糸があれば、いつでも実相を、つまり、諸法を見抜く力を引っ張ってこれますしね。糸で引っ張って引っ張って、気が付けば、二人羽織のように諸法の真後ろに実相がぴったりくっついているかもしれません。笑。
そんな「諸法」と「実相」が一貫して等しい(本末究竟等)状態、「諸法」と「実相」が一体となっている姿を成仏と言うのかもしれませんね。
現実の生活、諸法の中に実相をみていく力を極める。そんな諸法実相も、やっぱり自分の命の話をしています。どこまでも不安定な自分の命の話からは離れていかないもんです。笑。
素晴らしき人生を!