ホコリくん |
信仰は観念論ではない。いな人生そのものが観念論ではわからない。
「生きる」とは観念ではなく、実践であり、実感であり、厳然と事実の上に刻まれてゆく歴史です。
We can understand neither faith nor life through theory or logic alone. Life is not an abstraction. It has to be lived and experienced. It is the history we write through our real-life efforts and struggles.
引用:青春対話Ⅰ P397/Discussion on youth P214
信心をしていてよかったなと思うことの一つに、
何か自分の身に起きた時に、どう受け取り、どう行動していったらいいのか、自分なりに次のステップに移すことが出来るってことでしょうか。
何か自分の身に起きた時に、どう受け取り、どう行動していったらいいのか、自分なりに次のステップに移すことが出来るってことでしょうか。
人それぞれの意見はあるにせよ、私はそのように行動することで、悲観に浸るだけの時間は半分になり、キリキリと痛む心が変化し、結果に必ずいい影響を及ぼしていると実感することが少なくありません。
何かが起きても、もっともっと自分の中にある力を信じれるようになってくる。
私の出せる力はまだまだこんなもんじゃないんだと。
必ず私は現状を変えることができるはずなんだと。
信心をしていると、ふと、
もしかしたら私は、南無妙法蓮華経と唱えることで、私の中から湧き出てくる力を完全に確信できるのを待っているかのように、苦しみをあえて自分から出しているのかもしれない。
どんなことが起きても、確実にそうだと心の底から確信するようになるまで、環境がぐらつくのだと。
それを乗り越え、心が定まるのを待っているかのように、自分の業を表面に呼び出し続け、心を鍛え続けるのかもしれないと。
もちろん、こんなのは誰にもわかりゃしない。
苦しみの元は誰でも持っている。
出てきた業だけみてたら、消えない業が単純に出てきたのか、消すために呼ばれて出てきたのか、凡人にはわからないところではあるけれども、表に出てきた「因」が違うことから考えれば、その業は同じようで決して同じではないことだけは分かる。
出てきては祈り、出てきては祈り、必死にやって、これ以上はできないというさらにその上を超えてくる悩みと格闘し、
「消えない苦しみ」と「消す格闘」を繰り返していく中で、
確実に前に進んでいる自分がいることも確かなのだ。
いつの間にか、想像していた自分のさらに上に今の自分がいて、環境が徐々に整い、安心することが増え、一日が充実して、嬉しいなあ、よかったなあという気持ちになることも同時に増えていく。
だから、信心をしていく中で上がってくる業は、同じなようで決して同じであるはずがない。
そう実感するのです。
素晴らしき人生を!