あきらめたら、そこで試合終了だよ。 〔#223〕

あきらめない
どこかで聞いたようなセリフ。。



人は何かあると、自分の置かれている境遇は、誰にも分ってもらえない、自分しかこの苦しみは分からないと、心を閉ざしてしまいがちです。自分で自分を苦悩の殻に閉じ込めてしまうのです。
When we have a problem, we tend to think that no one else can understand our situation or our pain, and close ourselves off. We shut ourselves up in a shell of suffering. 

(省略)

幸福の敵は、自己を卑下する心です。困難に打ちのめされ、挑戦せずして、あきらめてしまえば、そこから不幸の連鎖が始まってしまうのです。
Succumbing to negativity is the enemy of happiness. Failing to rise to the challenge and giving in when struck by adversity sets in motion a chain reaction of misery. 

(省略)

仏法を学ぶといっても、自分自身のことと捉えなければ、観念に終わってしまう。自分には関係がないと思えば、「己心の外」に法を求めることになる。

If we fail to apply the teachings of Buddhism to our lives, they remain abstract theories. If we think they have no connection to us, then we are seeking the Law outside ourselves,

結局、不幸への流転をとめることはできない。

and we will not be able to end the cycle of suffering. 

この”負の連続”を断ち切る利剣が、妙法です。題目です。信心の一念によって、不幸から幸福へと大転換を起こしていくことができるのです。

The “sharp sword” for severing this negative cycle is the Mystic Law, our chanting of Nam-myoho-rengekyo. Through our determination in faith, we can make the great change from unhappiness to happiness.

大白蓮華2018年6月号/1 Mar 2019 Living Buddhism

-------------------------------------

苦しみは、苦しみにつけ題目を唱える。
When faced with difficulties, we chant Nam-myoho- renge- kyo to solve our problems.

悲しみは、悲しみのまま御本尊にぶつける。
When sad, we take our sadness to the Gohonzon.

うれしきは、うれしさを開いて、感謝の唱題にする。
When happy, we chant with a profound sense of appreciation.


悩みは悩みとして、大きく見おろしながら、前へ前へと行くのです。
As we do so, we continue moving forward, gazing down on our troubles from the vantage of lofty state of life.

御本尊を拝するということは、全宇宙を見わたし、見おろしていくようなものです。
When we pray to the Gohonzon, it is as though we are surveying the entire universe, 

自分自身の苦しんでいる生命をも見おろしていける自分になっていく。
allowing us to observe impassively our sufferings.


(略)

「仏法は勝負」なのだから、一生涯、戦いです。
Buddhism is a struggle. Life is also a struggle.

戦い続けられる強き強き自分をつくるのです。
That is why we must develop the inner fortitude to strive continuously to move forward.
引用元:法華経の智慧(5)/The wisdom of the lotus sutra vol Ⅴ(44p)

*********

こんな力強い先生の話、どうでしたか?

何のために学ぶのか。

何のために信心をするのか。


苦しみに引きずられてしまう自分の命をグッと引き上げるため。

言い訳のようなものを吐く弱い命を切るため。


結局、弱ければ、自身の”不幸への流転をとめることはできない”

とめることが出来ない事ほど、苦しいものはありません。


だれのためでもなく、自分のために、

自分を助けるために、

命に力がみなぎるこの妙法をたもち続ける。

この意志の中に、流転を止める因が隠されているんだ。


人は、「自分のことは自分が一番知っているんだ」と、よく言う。

であるならば、自分にしかわからない苦しみをどう止めれるのかだって、本当は自分がよく知っていなければいけないはずなんだ。

常に揺れる自分の心の先にあるもの。

何のために学ぶのか。

何のために信心をするのか。

法は、自分の命で動かすものだと覚悟する者のみが、自分の苦しみを止めることができる。


どうか素晴らしき人生を!





スポンサーリンク