もう実践のど真ん中にいるんだもの。 〔#224〕

自分なりの戦い方を知る
もう実践のど真ん中にいるんだもの。



頭のいい悪いんじゃないんだよ。
It's not a question of whether one is intelligent.

「真剣」であれば、必ず「智慧」はわいてくる。

As long as one is earnest, wisdom will well forth without fail. 

(略)


「自分は真剣にやっているが、智慧が出ない」という人もいるかもしれない。しかし、たいていの場合、そういう人は、内心では自分は頭がいいと思っているのです。
There might be some who say, "I am practicing wholeheartedly, but I'm not gaining wisdom." It is usually in such cases, however, that the person thinks of him- or herself as smart.

本当に頭が悪いと思ったら、「これでは皆に申しわけない」と思ったら、必死で題目を唱えるはずです。

If we think, on the other hand, "Well, I'm not that bright, but if this is all I can do, then I will be letting everyone down," and then chant with our whole being,

それで変わらないわけがない。

it is impossible that the situation will not change.

「だれかがやるだろう」とか、「自分には関係ない」という一念が、奥底にあるのです。それがあるかぎり、「普賢菩薩の威神の力」は出てこない。

As long as we have the attitude deep down that "Surely someone else will take care of it" or "This has nothing to do with me," then the "transcendental powers" of Bodhisattva Universal Worthy will not appear in our life.

「自分がやるんだ!」と信心で立ち上がった時、

When we stand up in faith, however, determined to do it ourselves, 

世間的な頭のよしあしを超えて、最高の「智慧」に適った行動になるのです。

we are able to transcend our ordinary capabilities and take action that accords with supreme wisdom. 

引用元:法華経の智慧(6)/The wisdom of the lotus sutra vol Ⅵ(236p)


こんにちは。

今回のはどうでしたか?


いいですね。


「内心では頭がいいと思っている」という部分で思わず笑ってしまいましたが、


「一生懸命やっているけど智慧がでないんです」で終わっているだけなら、やっぱり自分の潜在意識の中で、何が何でも前に進もうとする執念といいますか、一念が、どこかの段階でストップをかけちゃっている自分がいるんだろうなと思いますね。


例えばの話です。


もし、周りにたくさん敵がいて、武器を持っていたとします。


自分には小さなナイフしかもっていない。

ああ、自分に立派な武器があればと思ったところで、もう戦場の中にいるのです。

ないものをいつまで嘆いたところで、ないものはないんだからしょうがない。


銃をもった戦い方は出来ないんだから、あるものでなんとかやるしかない。


何が言いたいかというと、


ああ、自分にもうちょっとあのリーダーのようにうまく話ができたら。

ああ、もうちょっとあの質問に的確に答えてあげれる力があれば。

ああ、もっと頭が良ければ。

ああ、もっと英語が出来たら。笑。。

ないものは、もうしょうがない。羨んでいる場合ではないのです。

実践のど真ん中に立っているんです。

だったら、「今の自分を駆使して、自分なりの戦い方を編み出す」しかない。

正攻法が出来ないなら、何とか自分なりの攻め方で前に進もうとする一念。


電話でいきなり話をしても、頭が真っ白になるし、あったかい言葉かけもできないだろうから、ちょっと紙に励ましの言葉を書いてから連絡してみようとか。
人よりも時間がかかる方法だけど、言いたいことがもっと伝わりやすくなるかもしれない。


「何とかしよう」というこの潜在的な一念が、自分を補ってくれる一つの智慧となって現れてくることがわかります。


こんなふうにつらつら書きながら、


ふと何でもそうなんだろうなぁと思うわけです。



こんな見方もできます。


悩みがあったとして、やってもやっても、現実は変わらない。

こんなに一生懸命やっているのに何で変わらんのだとイライラしている段階では、これも祈ったら仏様や神様が叶えてくれると潜在的に思っている状態にあるのかもしれません。



そもそも何で叶えてくれないんだと他に対して思うからイライラがで出るわけですしね。

そんな「イライラ」も、逆に「悲劇のヒロイン」も、結局は同じで、そうなっている時点で奥底では「自分じゃない」と思っちゃってるのが感情になって現れてきたのかもしれません。笑。先生の話の通りです。


己心の外で起きてくるのはたまたま縁となって発動されただけで、大元はしっかりと自分の中にあり、誰のせいだとか、やんやいう筋合いのものではないことが分かってきますね。



よく「一念が定まる」と、まず「グチが無くなる」と言われるのはそういうことなんだと思います。


おっと、ちょっと長くなってしまいましたね。


素晴らしき人生を!








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