過去にとどまってしまうこと 〔#216〕

創価学会の仏法。浅識とは。


御書(1382㌻)には14の謗法のうち「浅識(せんしき)」の罪が説かれている。

One of the fourteen slanders mentioned in Nishiren Daishonin's writings is that of shallow, self-satisfied understanding. 

たんに知識が浅いということではなく、そこにとどまり、求道心を失って、”学ぼう”としない姿勢を意味する。
This does not merely mean possessing shallow knowledge; it indicates the condition of those who have lost their seeking minds and ceased to make efforts to deepen their understanding.

それは信心の後退である。

This signifies backsliding in faith.

引用元:日本語/親愛なるアメリカの友へ P77 英語訳/My Dear Friends in America P47

みなさん、こんにちは。

浅識は罪なんですよという話、どうでしたでしょうか。

単純に知識が浅い深いというところではなく、「姿勢」の話をしているんですよというところがポイントとなっています。

確かにその通りですね。

そしてそれは、「学ぶ姿勢」という意味だけではなく、当然「信心そのものの姿勢」にもつながっていきます。

学ぶ姿勢も、信心の姿勢も、そこにとどまることは、信心の後退を意味するということ。


確かにそうかもしれません。


活動を続けていきますと、いろんな経験値があがっていきますね。

今まで積み上げてきたものもあります。

それがなまじっか役に立ったり、そこそこできたり、そこそこ知っているもんだから、そこにとどまらないでいるっていうのはまったく知らない人よりも案外と難しいはずです。

どうでしょうか。笑。


知識が浅いか深いかより、今とどまっている方が罪なのは、そういう姿勢では自分の未来が妙法のリズムにのっていかないからでしょう。



「こんだけ今までやってきた」という自分に目を向けたままでいると、今の自分は、過去が生み出した結果の産物にとどまってしまいます。今のあなたが「果」だけであれば、そこで終わりです。

ことに信心はそうあってはならない。

この信心は本因妙と言いますから、今の自分は、「果」を生み出す「因」の存在にならなければけないはずです。



今のあなたが「因」になるから、その因により未来が動くのです。

これだけの経験をしてきている。


こんなに知っている。



だからこそ、「今の自分」に、「今の姿勢」に反映されていなくてはいけない。


ね、どうでしょうか。



・・・ゲホッ、ゲホッ。


そう、私は風邪をひいている場合じゃないのです。笑。


・・・ゲホッ、ゲホッ。



もう、カラ咳が止まらん!



・・・素晴らしき人生を!!



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