東を向いた樹木が倒れたら〔#160〕

 
もしも倒れたら

初期の仏典には、次のような話がある。
――摩訶男(マハーナーマ)という、在家の信者がいた。
An early Buddhist scripture tells the story of a lay believer named Mahanama.

彼は、もし、街の雑踏のなかで、三宝への念を忘れている時に、災難に遭って命を失うならば、自分はどこで、いかなる生を受けるのかと、仏陀に尋ねる。
He asked the Buddha where and in what form of existence he would be reborn were he to suddenly meet his end in an accident due to being distracted by the bustle of the town instead of concentrating his thoughts on the Three Treasures—the Buddha, the Law and the Buddhist Order.

すると、仏陀は言う。
The Buddha responded,

「摩訶男よ、たとえば、一本の樹木があるとする。その樹は、東を向き、東に傾き、東に伸びているとする。もしも、その根を断つならば、樹木は、いずれの方向に倒れるであろうか」
“For instance, Mahanama, if a tree bends to the east, slopes to the east, tends to the east, which way will it fall when its root is cut?”

摩訶男は答えた。
To which Mahanama replied,

「その樹木が傾き、伸びている方向です」
“It will fall [in the direction that] it bends, slopes and tends.”

『新・人間革命』10巻「言論城」から
The New Human Revolution, vol. 10,“Bastion of the Pen” chapter



皆さん、こんにちは。

お元気にされていますか?

さて、ところでみなさん、


例えば、何かを読んだ後に、なぜだかこの部分の話だけいつまでも記憶に残っているっていうこと、ありませんか?

きっと自分の何かに引っかかってくるんでしょうねぇ。

メモを取るまでもなく、そして、そこまで重要だというほどでもないけれども(笑)、個人的に好むストーリ。

でも、そんなちょっとした話ほど、メモを取っておかないと再び見つけ出すことって難しいですよね。

メモを取るって・・大切ですね。

そんな、私の記憶力の話はおいておいて、

回は私が個人的に心に残っている話をご紹介してみました。


どうでしたでしょうか。

何がそんなにひっかかったんでしょうね(笑)。


も妙に何かが納得できたといいますか、

日々のごちゃごちゃを過ごしながら、自分の命そのものがどこに向いているのかというのがとても大切だという事がわかる話です。

なんか、知識があるとかって、身に入っていることとは違うから、頭の先で考えていることの範疇に入っちゃうというか、その人の命の流れを決定するものにはならない気がします。

命の流れにふれるものに命が動く。折伏ってだから大切なのかもしれません。

戸田先生は、死ぬときのために信心があるんだよ※1とおっしゃっていたようですが、

これも要するに、


自分の命が常にどこに向いていたのか、自分の命がどこに向かって流れていたのかっていうことがこの信心の結論部分でもありますし、それがきっと成仏とはの答えになるんだろうなと思うわけです。


広宣流布とは「到達点」ではなく、「流れそのものだ」とも表現されていますね。


自分の命の流れる方向が、広宣流布の流れと同じ方向に伸びている。


自分の
「点」のような命が、永遠に流れるっていうイメージがつきやすくなります。


まあこんなふうにちょっとした話からいろいろ膨らんでいって、妙に納得していたりするわけです。

では!

追伸)今日は休みボケで、何だか頭が痛いです。やばい、やばい。流れ。流れねば。


ー参考資料ー
※1_戸田先生の言葉の引用元:)


よく考えてみれば、死が3日後であっても、3年後であっても、30年後であっても、本質は同じなのです。ゆえに、いつ死んでもいいように、「今」を生きるしかない。また永遠から見れば、100年も一瞬です。文字通り、「臨終只今にあり」なのです。
Upon reflection, whether death awaits us in three days, three years or three decades, the reality is essentially the same. That’s why it is so important to live fully right now, so that we will have no regrets if we die at any moment. From the perspective of eternity, even a century is just an instant. It is genuinely true, as the Daishonin says, that “now is the last moment of one’s life” (“The Heritage of the Ultimate Law of Life,” WND-1, 216).

戸田先生も「本当は、死ぬときのために信心するんだ」とおっしやっていた。
Second Soka Gakkai President Toda also said, “In truth, we practice Buddhism for the time of our death.”

何が確実といって、「死」ほど確実なものはない。だから、今、ただちに、三世永遠にわたる「心の財」を積むことです。その一番大事なことを「あと回し」にし、「先送り」して生きている人が人類の大半なのです。
Nothing is more certain than death. That’s why it is vital to immediately set ourselves to the task of accumulating the treasures of the heart that will endure for eternity. Yet the great majority of people put off this most crucial of all tasks or leave it for some future time.

生死一大事というが、生死ほどの「一大事」は人生にない。この一番の大事に比べれば、あとはすべて小さなことです。
There is nothing as important as what Buddhism calls the “one great matter of life and death.” Compared to this crucial matter, everything else is minor—a fact that becomes abundantly clear at the moment of death.

「幸福と平和を創る智慧」第一部(下)/ The Wisdom for Creating Happiness and Peace



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