創価学会はなぜ「釈尊」を信仰しないのだろうか。
末法の民には効力がないの? |
こんな話題になるとよく言われるのが、
私たちは「末法/ Latter Day of the Law」の時代の人なので、(注。釈迦がいた時代のことを「正法/ Former Day of the Law」といいます)
末法時代の濁った生命には釈尊、あるいは他の教えは効力がないのだというように答えることが多いようです。
末法論はよくわからん。
命の違いなんてあるのかなぁ。 |
でもこの答え方って、
仏教的な考え方に馴染みがないと「うん、そうだね」とはなりにくい。
個人的には、まあ、確かに感覚的にはなりますが、法華経を読むと、釈尊も、そして後世の弟子達も含めて、研ぎ澄まされた感覚というか、感じ取れるレベルがすごいなとは思います。
そうは思うけれども、一方で、
何というか、
「昔の人」と「今の人」の「命の質」にそんなに変わりがあるのだろうかという気持ちにもなるのです。
私にはしっくりこないの。どうしても。 |
言いたいことはわかるのですが、
このような質問に末法論だけですべて答えを出すのもちょっとしっくり来ない気がします。
じゃあ、なんで法華経を読誦しているのか
じゃあ、なんで法華経を読誦しているの? |
そもそも、末法では効力がないはずの法華経の一部を我々は毎日読誦しています。
これは一体何故なんだとう、など。
・・まあこういうところを皮切りに、いろいろ考えていきたいのです。
まず、なぜ釈尊を信仰しないのか、
そして、釈尊と大聖人の仏法はどう違うのかを見ながら考えていきます。
法華経の本当の正体とは・・・
法華経で説かれている仏ってなに? |
法華経の寿量品には、「常住不滅 I am always here, never entering extinction」という言葉があります。
「私は常にここにあり、滅することはない」と仏が弟子に伝えるのです。
「私は滅しないのだ」という、この「仏の命」の概念は、受け手が下手をすると「絶対的な神が見守っている」というようなイメージになりやすいのですが、実はそうではないということを寿量品のところで一緒に学びました。
仏の正体とはなにか。 |
決定打は寿量品の最後の一文です。
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
いつでも自らこのように念じているのです。「どのようにして衆生を無上道に入らせ、すみやかに仏の身を成就することを得させようか」と。/At all times I think to myself: How can I cause living beings to gain entry into the unsurpassed way and quickly acquire the body of a buddha?
この一言は、
一見すると法華経は「スターウォーズ」ばりのスペクタクルアドベンチャーに見えがちですが、実はこの一言にほとばしる「命のエネルギー」そのものが「法華経」の、そして「仏の命」の正体だということに気が付きます。
法華経はファンタジーの話なんかでは決してない。
法華経の正体 |
この「見えない」エネルギーを「見える」形として言葉で表現したのが法華経であるということがわかれば、法華経のストーリーはファンタジーではなく、現実の生活に起こる心の動きであることがわかると思うのです。
ここが非常に大事なポイントだと思います。
命から湧き出るこのエネルギーが正体だからこそ、不自惜身命、自分の命を惜しまないで法を求めるときにだけ、「仏」は姿を現すと法華経ではずっと言われていたわけです。
法華経はエネルギーの解説書のようなもの。
法華経の正体 |
法華経はいわばこのエネルギーの解説をしていたのです。
そして、このエネルギーを自在に操ることが出来ることが「悟る」という意味なのだと。
これが法華経の、そして仏の正体だということを。
それがどんなに素晴らしいものなのかを。
素晴らしさはわかるのと、自分が出せるのは違う。ここがポイント。
誰もが取り出せる方法はないの? |
しかし、スターウォーズの世界に隠れながら表現されているこのエネルギーの存在、「すばらしさ」の解説はされていても、そのエネルギーを自分の中から実際にどのように出すのか、具体的な方法は記されているわけでなないので、非常に難解なイメージがあるのも事実です。
法華経を「受持する」とは、一体どういう意味なのかと。
分かる人だけ分かればいい。法華経はそんなもんじゃない。
この真意を汲み取ることも難しく、どう実践していったらいいのかが錯綜していくわけです。これが、仏教がここまで派生していった要因の一つになっているのかもしれません。
「だれもが仏になれるという可能性」は「法華経」で表現できていたとしても、この法を自分の中から出す方途が示されていないのです。
大聖人以前にもわかる人はこれが分かっていたのかもしれません。
でも、仏になる可能性は誰しも持っているのに、この難解さの中に埋もれて、限られた人たちにしかわからない。
分かることが出来る人だけ分かる。
大聖人の登場によって、この実体の見えないものの正体と具体的な方途を明確にされるのです。
まず、法を明確にしていきます。
日蓮の登場 |
まず大聖人は、法を明確にしていきます。
南無妙法蓮華経とは
エネルギーの本体を明確にする |
それは、
法華経にこのエネルギーの本体があるとして、その「法」に南無(帰命する)、「南無妙法蓮華経」とつけました。
参考資料:
四信五品抄:
「妙法蓮華経の五字は経文に非ず 其の義に非ず 唯一部の意なるのみ(342㌻)」
(意訳)妙法蓮華経の五字は、たんなる経文ではない。その意義でもない。ただ法華経全体の心でなのだ。
On the Four Stages of Faith and the Five Stages of Practice:
The five characters of Myoho-renge-kyo do not represent the sutra text, nor are they its meaning. They are nothing other than the intent of the entire sutra.
釈尊さえも仏になれる、あらゆる仏を仏にしたエネルギー
あらゆる仏を仏にした力の本体 |
釈尊さえも仏になることができた、このエネルギーというのは、この「南無妙法蓮華経」であると示したのです。つまり「南無妙法蓮華経」こそが、「すべての仏が持つ法そのものなのだ」と説きます。
あらゆる仏を仏にしたのは、南無妙法蓮華経なのだと。
私たちが「釈尊そのもの」を祈ることをしない理由の一つは、ここから来ていると思うのです。
曼荼羅とは
仏の意味 |
この仏のエネルギーというのは、冒頭で話しましたように、「仏の誓願」そのものが正体だからこそ、自惜身命、自分の命を惜しまないで法を求めるときにだけ、「仏」は姿を現すと法華経では説かれていました。
だから曼荼羅をつくったのです。
曼荼羅の意味 |
「誓願をたてている命」にしか仏があらわれてこないということは、
「誓願をたてている人の命」そのものを、実際に見える形にすることで、
「エネルギーの本体」と「すべての民衆」とを直接結びつけさせることができると考えたのだと思います。
だから、
「南無妙法蓮華経 日蓮」なのです。
「誓願をたてている人の命にしかあがってこない法」を具現化するには、
南無妙法蓮華経という「法」と、日蓮という「人」が同時にいなくてはいけません。
法だけでは機能せず、人だけ崇めても機能しないのです。
自分の名前を法に連ねた本当の意味 |
ですから、
自分の名を法に連ねるという意味を、私たちはもう一度真剣に考えなくてはいけないのかもしれません。
自分の名前を出すということは、
自分の名において、衆生の救済に全責任を負うという誓願だからです。
本尊論は、はやりこの観点で論じ合うのも必要かと思います。
この誓願が、曼荼羅の、そして本尊の本体だからです。
本尊がどうだこうだ言う前に、一番大切なことは、
この命を自分自身が汲めるかどうかがその答えになっている。
これは、だれも、どこも挟む余地のない、それに対するあなた自身の戦いになるからです。
・・・。
これは非常に厳しい。
自分が一番、痛いほどわかっているからです。
それは、
誰がどうだ、何だと恨む筋合いのものでもなく、最終的には何も挟まっていない、自分の命の因を、嫌でも見ていくことになるからです。
私たちが、折伏をし、広布の誓願をたて祈るというのを大前提に活動をするのはここから来ています。
弟子と名乗る以上、
この誓願の命には、誓願でこたえていく。
名もなき父母の、誓願のかたまり。
それが創価学会なのです。
※画像付きバージョンで再UPしています。
2017年8月30日
2017年10月13日(画像UP)
2017年10月19日(追加)