あれ急にどうしたの?と言われそうですが、
いやー、
私もまさか「釈尊」についてブログを書くことになるとは思ってもいませんでした。(笑)
本当は違うことを書いていたのですが、どんどんさかのぼってしまい、ついに「釈尊」までたどりついてしまいました。
せっかくなので皆さまと「釈尊」の生涯を一緒にみていこうと思います。
知っていて損はありません。
あまりに詳細な内容は割愛しておりますが、おさえどころは書いているつもりです。
釈尊とは「どんな人」で、何に「悩み」、どう「動き」、「挑み」、そして「亡くなっていった」のだろうか。
それでは釈尊の生涯をみていきましょう。
突然ですが、「釈尊」とは誰のことでしょう。
「釈迦」、
「お釈迦さま」、
「釈尊」、
「仏陀」、
「仏さま」
色々な呼ばれ方をしていますが、すべて同じ人物を指しています。
しかも、どれも本名ではありません。
本名は「ゴーダマ・シッダールタ」といいます。
インド人かネパール人です。たぶん。
(その当時はインドもネパールもありませんが)
紀元前5世紀ごろ(2500年以上前)の人ですので
古すぎて諸説が多すぎ、どこまでが本当かよくわかりません。
存在すらされていないのではという人までいるらしいです。
なぜかというと、釈尊自身、文字で残していません。
文字に起こしたのは弟子たちです。
彼の存在は全て弟子たちが後世に伝えているのです。
さて、その頃の日本はまだ古墳時代。
古墳時代って知っていますか?
こっちも古すぎてよくわかりません。(笑)。
「はにわ」を作ってた時代です。
お〜い♪ はに丸っ、はに丸王子〜♪
って知っていますか?
お馬のひんべえといつも一緒の。
はにゃふにゃ言っている王子です。。。
・・・知らない人は忘れてください。
あっ、そうそう。
ちなみに「ブッダ」っていうのは
古代インドの言葉(サンスクリット語)で
「人生の本当の意味を悟った人」、
「真理に目覚めた人」という意味で、
漢字で訳すと「仏陀(ブッダ)」。
だから「ゴーダマ・シッダールタ」の説いた教えを
ひっくりまとめて「仏教」と訳されているようです。
呼び名でもう一つ言いますと、
「ゴーダマ・シッダールタ」の出身部族を
サンスクリット語で「シャーキャ」というようで、
その漢訳が「釈迦」。
「釈迦」族の人だから「釈迦」。
もう一度整理しますと、
本名は「ゴーダマ・シッダールタ」。
それ以外は呼称というか敬称です。
ちなみに私たちは「釈尊」
と呼んでおります。
サンスクリット語の「シャーキャムニ」と
「バガヴァンド」を組み合わせた
「釈迦牟尼世尊」
(釈迦族出身の尊者)の略のようです。
何度も言いますが、
本名は「ゴーダマ・シッダールタ」です。(しつこい?)
呼び名が違うだけで、
論点はそこにはございません。
それぞれに敬意を表している
ということでよろしいのではないでしょうか。
それでは釈尊の生涯について一緒にみていきましょう。
生誕について
釈尊が実在するとして、
今のネパールとインドの国境あたりにあったとされる
カピラヴァストゥの近くのルンビニーで生れたとされています。
お父さんはシュッドーダナ(浄飯王)。
カピラヴァストゥの城主で釈迦族の王
とも言われていますので、釈尊は王子として育ち、
何不自由のない暮らしを送っていたようですが、
物事を深く考える性格だったようです。
もちろんお父さんにとっては王子に王位を継承して
安泰でいてほしいと願うのは自然なことです。
釈尊は16、17歳ごろ、ヤショーダラーという女性を
妃として迎えます。他にも何人かいたようですが、
いろんな伝承で一致しているのがヤショーダラで、
ラーフラという子をもうけたといわれています。
しかし、釈尊は出家します。なぜでしょう。
出家するエピソードとして有名な出来事が経典にあります。
分かりやすくストーリー化したものと思われます。
これを、四門遊観(しもんゆうかん)というそうです。
四門遊観(しもんゆうかん)Four encounters/Four meetings
経典によると、あるとき釈尊は
城から外出しようとして、東の門で杖をついた腰の曲がった老人にはじめて出会います。そして、髪は白く、歯はなく、皺だらけの人間、あれは一体何なのか付き人(チャンナ)にたずねます。付き人は老人であること、だれでも年をとればこのように衰えるものであることを伝えます。
あるとき、南門から出ようとしたときに、苦しみ死にかけている病人に出会います。釈尊は驚き、付き人にたずねます。チャンナはすべての人は病気や痛みを抱えるものであること、いつまでも健康で痛みのない人生はないことを伝えます。
またあるとき、西門から出ようとしたときには死者を送る列に出会います。嘆き悲しむ姿を見て、誰も死から逃れることができない運命であると伝えられます。
この「老い」、「病」、「死」を目の当たりにした釈尊は、生きる上で耐えなければならないこのような苦しみに対し、深く考えるようになります。
そして4つ目の門。
北門を出るときに、修行者(沙門)に出会います。苦しみから救われる方法を探している人だと伝えられます。そして、これまで出会った、人の苦しみの本源(生老病死/birth, aging, sickness, and death )を自ら解決するために、修行に身を投じる決意をしたといわれています。
成道(じょうどう/attaining the way )するまで
そのころの修行とは瞑想と苦行。この2つが主流です。
当時、伝統的なバラモン教のほかに、
「六師外道(ろくしげどう)six non-Buddhist teachers 」といわれる六派の哲学、思想があり、それが分裂した形で95派の流派が互いに争っていました。
釈尊はそれらの思想家たちを訪ね、教えを学びますが、いずれもさほど得られるものではなかったようです。また、いろんな苦行にもはげみますが、身体が衰えるだけで解決法を得られるわけではないことが分かります。
聖者や仙人という人たちに近づくことでは、人々の苦悩を救う道は見えてこない。
釈尊はその後一人で修行に励んでいくことになります。
釈尊が30歳のとき(35歳説あり)、ブッダガヤの菩提樹の下、そこで深い瞑想に入ります。
競い起こる煩悩、障魔の妨げ(悪魔マーラです。詳細は割愛。)を克服して、ついに苦悩を根本的に解決する根源の法(真理)を覚ったといわれます。
こうして釈尊は「ブッダ」、すなわち「真理に目覚めた人」と呼ばれるようになります。
これを成道(じょうどう)というらしいです。
英語で attaining the way と言います。
attainという単語は、「苦労して努力して目的を成し遂げる」という意味です。
成道した後(?この使い方、合ってるのかな?)、
釈尊は人々に説いても理解できないのではないかと、教えを説くことをためらったようです。人は本当に救いたいと思うから、どう救えばいいのか迷うのかもしれません。
しかし、梵天(ぼんてん)からその悟りを広めるよう三度勧められ、説法を決意したとされています。(釈尊が決意するまでの迷いや心の揺れを、梵天という神を出して分かりやすくストーリー化しているものと思われます。)
当時は弟子になった人にだけ教えを説くという「秘密主義」をとるのが普通ですが、釈尊はすべての人に法を説くことを始めました。(「甘露の門は開かれたり 耳あるものは聞け」)
当時の主流だったバラモン教はヴェーダ語でしか伝えてはならないとされていました。上流だけが用いることを許され、カーストの下の人々には聞かせてはならないというのが風習だったようです。釈尊はヴェーダ語は一切使わず、マガダ語という民衆の日常語を使って法を説いていたといわれています。
この一つの例だけとっても、釈尊がすべての人々の苦悩を救いたいと本気で取り組んでいたことが分かります。
転法輪(てんぽうりん)/The turning of the wheel of the Law
英語でThe turning of the wheel of the Lawといいます。覚りの法という車輪を回転させるという意味です。
説法、弘教の時代に入ります。
釈尊は、当時の文化・宗教の中心だったベナレスに行き、郊外のサルナートで最初の説法を行います。初転法輪(しょてんぽうりん)というそうです。
そこでは、かつで一緒に修行した5人の修行者(五比丘「ごびく」/five ascetics )が最初の弟子になり、この五人の弟子にも法を広めるよう勧め、自身も教えを広める旅を続けていきます。
それ以降、智慧第一の舎利弗(しゃりほつ/Shāriputra) など「十大弟子/ten major disciples 」など多くの弟子が育っていきます。
九横の大難(くおうのだいなん)nine great persecutions/nine great ordeals
釈尊と弟子たちが精力的に弘教を行っていくにつれ、王や有力な商人などの帰依を集めるようになっていきます。それまで彼らの帰依を得ていた者や、釈尊の名声をねたむ人々が現れ、さまざまな妨害がおこってきます。釈尊が受けた九つの大きな難を「九横の大難」といいます。
九横の大難には諸説あるようですが、釈尊のいとこの提婆達多(だいばだった/Devadatta)が岩を落として釈尊を殺そうとしたこと、阿闍世王(あじゃせおう/Ajātashatru )が酒に酔わせた象を放って釈尊を踏み殺させようとしたことなどがあげられます。
大難を越えて釈尊の教えはどんどん広まり、弟子もどんどん増えていきます。
入滅
五十年間、法を人々に説き続けた釈尊は、死を目の前にして、弟子のアーナンダにこのように伝えます。「私は内外の隔てなくあらゆる法を説いた。完全なる人(釈尊)には何か弟子に隠すような教師の握りこぶしは存在しない」
自分が覚ったすべてを説き切ったこと。自分がいなくなっても法は生きている。
これからはその説いた法を灯とし、弟子たち自身が正しい法と自分自身を拠り所をしなさいと。(自灯明・法灯明)
「怠ることなく、勤め励め」
この言葉を最後に、クシナガラの近くで八十年の生涯を閉じたそうです。
釈尊の葬儀は生前の教えにしたがい、出家者は関与せず、在家の人々によっておこなわれました。
以上が、釈尊の生涯です。
どうでしたか?
私は仏としての釈尊の姿という見え方より、どうしたら人を救えるのか悩み、実行にうつした一人の人間の行動力に心をうたれました。
たまには歴史を紐解くのも悪くありません。では!
※追加(1)
小説『新・人間革命』第3巻「仏陀」より
from The New Human Revolution, volume 3, “The Buddha” chapter
菩提樹の下で、釈尊の思惟は続いた。
Shakyamuni continued his meditation under the bodhi tree.
仏伝によれば、この時、悪魔が釈尊を誘惑したとある。その誘惑の方法は仏伝によって異なるが、優しく語りかけたとしているものもあることは興味深い。
According to Buddhist writings, at this time demons began to
tempt him. The devious means they resorted to differ among the Buddhist
writings, but it is interesting to note that some involved tempting him with
words of apparent kindness and concern. In one account, for example, a demon tried to sway Shakyamuni by
whispering to him gently:
〝お前はやせ細り、顔色も悪い。まさに死に瀕している。このまま瞑想を続ければ、生きる望みは千に一つもない……〟
“Look how gaunt you are, how pale your face is.
You’re surely on the verge of death. If you keep sitting here like this, it
will be a miracle if you survive.”
悪魔は、まず生命の危機を説き、生きることを促したあと、バラモンの教えに従っていれば、そんな苦労をすることなく、多くの功徳を積むことができると説得する。そして、釈尊のやっていることは、無意味であると語るのである。それは、己心の激しい葛藤劇であったととらえることができる。
After pointing out the peril he was in and strongly urging him
to live, the demon tried to persuade Shakyamuni that if he instead followed the
teachings of Brahmanism, he could accumulate great benefit without having to
undergo such hardship. Shakyamuni’s efforts to attain enlightenment, the demon
declared, were meaningless. The demon’s appeals here can be seen as giving voice to the
fierce struggle unfolding within Shakyamuni’s mind at that moment.
Doubt assailed him, shattering his inner peace and throwing his mind into turmoil. With his body extremely weak and his physical reserves all but depleted, the terror of death must have risen in his heart. Shakyamuni’s mental torment was all the greater because, knowing that he had gained nothing from the intense austerities he had undertaken, he began to doubt that perhaps this effort to attain enlightenment, too, might ultimately prove meaningless.
ともあれ、欲望への執着が、飢えが、眠気《ねむけ》が、恐怖が、疑惑が、彼を襲った。
He was assaulted simultaneously by attachment to worldly
desires, by physical hunger, by craving for sleep, also by fear and doubt.
魔とは、正覚への求道の心を悩乱させようとする煩悩の働きである。それは、世俗的な欲望への執着となって生じることもあれば、肉体的な飢えや眠気となって現れることもある。あるいは、不安や恐怖、疑惑となって、心をさいなむこともある。
Demons or devils represent the workings of earthly desires and
illusions attempting to unsettle the mind of those who seek the way to true
enlightenment. Sometimes devils arise in the form of our attachments to worldly
desires, or appear as the physical cravings of hunger or sleepiness. At other
times, they torture the mind in the form of anxiety, fear and doubt.
そして、人間はその魔に惑わされる時には、必ず自己の挫折を、なんらかのかたちで正当化しているものである。しかも、それこそが、理に適ったことのように思えてしまう。
Whenever people are led astray by such devilish functions, they
invariably justify their failing in some way. Furthermore, they convince themselves
that their justification is perfectly reasonable and natural.
たとえば、釈尊の〝こんなことをしても、悟りなど得られないのではないか〟という考えは、それまで大悟を得た人などいないだけに、一面、妥当なことのように思えよう。
For example, since in Shakyamuni’s day no one had yet attained
enlightenment, it may have seemed quite reasonable for him to question whether
his meditation under the bodhi tree might not prove futile after all.
魔は「親の想《おもい》を生《な》す」(御書917㌻)といわれるが、往々にして魔は、自分の弱さや感情を肯定する常識論に、すがる気持ちを起こさせるものだ。
More often than not, devilish functions cause people to clutch
at some seemingly reasonable conclusion that vindicates their weaknesses and
emotional needs. Nichiren warns of this, citing the words, “The devil will
watch over him like a parent” 10 (“The Actions of the Votary of the Lotus
Sutra,” WND-1, 770).
だが、釈尊は、それが魔であることを見破り、生命力を奮い起こし、雑念を払うと、高らかに叫んだ。
However, Shakyamuni saw these devilish functions for what they
were and summoned a powerful life force, sweeping away all the disruptive
thoughts that plagued him. In his heart, he cried out:
「悪魔よ、怯者《きょうしゃ》はお前に敗れるかもしれぬが、勇者は勝つ。私は戦う。もし敗れて生きるより、戦って死ぬほうがよい!」
“Demons! You may defeat
a coward, but the brave will triumph. I will fight. Rather than living in
defeat, I would rather die fighting!”
すると、彼の心は、再び平静を取り戻した。
With this, his mind was restored to a state of tranquillity.
辺りは、夜の静寂に包まれ、満天の星が、澄んだ光を地上に投げかけていた。
The quiet blanket of night enfolded him, as countless stars
above glittered with a pure, crystalline brilliance.
魔を克服した釈尊の心はすがすがしかった。精神は澄み渡り、晴れた空のように一点の曇りもなかった。
After triumphing over the onslaught of devilish forces,
Shakyamuni’s mind was left fresh and invigorated, his spirit as clear as a
cloudless blue sky.
彼は三世にわたる生命の永遠を覚知したのである。
He thus awakened to the eternal nature of life that spans past,
present and future.
その時、生まれて以来、心の底深く澱《おり》のように沈んでいた、あらゆる不安や迷いが消え去っていた。自己という存在の、微動だにしない深い根にたどりついたのだ。
At that moment, all fears and doubts that had resided in the
depths of his life like a heavy sediment since birth evaporated. He had arrived
at last at the deep, immovable roots of his own existence.
彼は、無明の闇が滅して、智慧の光明がわが生命を照らし出すのを感じていた。そして山頂から四方を見渡すかのように、彼の境地は開かれていった。
He felt the darkness of illusion that shrouded him fall away as
the brilliant light of wisdom illuminated his life. He had unlocked within
himself a state of being akin to commanding a clear, unhindered view in all
directions from atop a lofty mountain peak.
◇
法楽を味わった釈尊は、しばらくすると、深い悩みに沈んだ。それは新しい苦悩であった。彼は木陰に座り、何日も考えていた。〝この法を説くべきか、説かざるべきか……〟
For a time, Shakyamuni simply savored the joy of awakening to
the Law—the fundamental law of life and universe—but soon he began to grow
deeply troubled. He faced a painful new dilemma: Should he preach this Law to
others or should he remain silent? Sitting in the shade of the bodhi tree, he
agonized for many days over this question.
彼の悟った法は、いまだかつて、誰も聞いたこともなければ、説かれたこともない無上の大法である。光輝満つ彼の生命の世界と、現実の世界とは、あまりにもかけ離れていた。
No one had ever before heard, let alone expounded, this
magnificent, unsurpassed Law. A vast gap lay between the brilliant realm within
his own being and the real world outside.
人びとは病を恐れ、老いを恐れ、死を恐れ、欲望に身を焼き、互いに争い合い、苦悩している。それは「生命の法」を知らぬがゆえである。しかし、衆生のために法を説いたとしても、誰一人として、理解できないかもしれない。
People lived in torment, fearing sickness, aging and death.
Consumed by desire, they fought constantly among one another. All this was due
to their ignorance of the law of life. Yet even if he taught them the Law for
their own sake, it was possible that no one would comprehend it.
釈尊は孤独を感じた。それは未聞の法を得た者のみが知る、「覚者の孤独」であった。
Shakyamuni felt completely alone. His was the loneliness of the
truly enlightened, something known only to those who have gained an
understanding of a profound principle or truth that no one else is aware of.
ある仏伝によれば、この時も悪魔が現れ、釈尊を苦しめたとされる。それは、法を説くことを思いとどまらせようとする、己心の魔との戦いと解《かい》せよう。
One account depicts demons reappearing at this point to torment
Shakyamuni. This episode can again be interpreted as a struggle with the
devilish functions in his own life, which were now attempting to dissuade him
from teaching the Law to others.
釈尊は布教に突き進むことに、なぜか、逡巡と戸惑いが込み上げてきてならなかった。
Shakyamuni couldn’t stem this upsurge of doubt and hesitation at
the thought of forging ahead and disseminating the Law.
彼は悩み、迷った。魔は、仏陀となった釈尊に対しても、心の間隙を突くようにして競い起こり、さいなみ続けたのである。
He agonized over what
to do. Devilish functions thus continued to plague Shakyamuni even
after he had become a Buddha. They vied to attack him through even the smallest
breach in his heart.
「仏」だからといって、決して、特別な存在になるわけではない。悩みもあれば、苦しみもある。病にもかかる。そして、魔の誘惑もあるのだ。ゆえに、この魔と間断なく戦い、行動し続ける勇者が「仏」である。反対に、いかなる境涯になっても、精進を忘れれば、一瞬にして信仰は破られてしまうことを知らねばならない。
A Buddha is not a superhuman being. One who has attained this
state continues to experience problems, suffering and pain, and is still
subject to illness and to temptation by devilish forces. For that reason, a Buddha
is a person of courage, tenacity and continuous action who struggles
ceaselessly against devilish functions. No matter how lofty a state we may achieve, without persistent
efforts to advance and improve, our faith can be destroyed in a moment.
仏伝では、逡巡する釈尊の前に、梵天が現れ、あまねく人びとに法を説くように懇請したとある。それは、自己の使命を自覚し、遂行しようとする釈尊の、不退の意志の力を意味しているといえよう。
According to a Buddhist text, the god Brahma appeared before the still indecisive Shakyamuni and entreated him to preach the Law to all people. This episode symbolizes the powerful determination that welled up in Shakyamuni’s life to go forward and fulfill his mission.
“I will go forth!” he resolved with finality. “Those who seek to learn will surely listen. Those of little impurity will understand. I shall go out among the people, who are shrouded in delusion and ignorance!”
釈尊は、そう決めると、新しき生命の力が込み上げてくるのを感じた。一人の偉大な獅子が、人類のために立ち上がった瞬間であった。
Once he had made this determination, he felt a surge of new
energy flow through him. At this moment, a great lion stood up for the
happiness of humanity※追加2_池田先生『生命を語る』より抜粋
死苦を乗り越える仏法の生命観The Buddhist View of Life That Transcends the Suffering of Death
釈尊は、死にたくない、死を受けいれたくない、死を見つめたくないという、人間本来の本能のようなものを乗り越えて、偉大なる勇気をもって、人生の苦の相、真実相を受けいれた。そしてそのうえで、生と死の本質に対し、思索に思索を重ねたのだろう。
With tremendous courage, Shakyamuni overcame this primal human
instinct to fear death, to refuse to acknowledge or contemplate its reality,
and accepted the suffering that is the true nature of human existence. Then,
based on that courageous stance, he deeply pondered the essence of life and
death.
仏法は永遠の生命を説くけれども、それは決して、安易に民衆の不死への願望を受けいれた理論ではない。諸行無常《しょぎょうむじょう》や、苦集滅道《くじゅうめつどう》(仏教が説く苦の原因と解決の法理)という教えは、人間が避けたがる人生の苦の相を、そのまま如実にさらけたして見せているのだと思う。空想的仮説で真実を糊塗するのではなく、冷徹な眼《まなこ》で真実を凝視した。生あるものはかならず死ぬ。この大前提をそのまま認めた。
Buddhism teaches the eternity of life, but not as a simplistic
response to people’s cherished hopes for immortality. The Buddhist teachings of
the impermanence of all phenomena and the four noble truths (clarifying the
causes and the resolution of human suffering) 5 directly expose the reality of
the suffering inherent in life, a reality that people try to avoid. Shakyamuni
did not seek to whitewash the reality of existence by offering some consoling
myth or fiction; he looked at it directly, with cool objectivity. All things
that are born will die. He affirmed this as the underlying truth of existence.
なぜ死ぬのか。死と生とはまったくかけ離れた存在なのか。それとも密接な関係にあるのか。生命はどのような流れがあるのか。勇気と忍耐と冷静さをもって、釈尊はみずからの生命に光をあて、その真実相を悟ろうとした。そうして得た悟りが、永遠の生命だったのです。
Why do we die? Are life and death completely separate from one
another? Or are they closely interrelated? Is there a continuity underlying
life itself? Reflecting on his own life, Shakyamuni sought the answers to those
questions with courage, tenacity and objectivity. And the truth to which he
became enlightened is that life is eternal.
生と死を、人間生命は本然のうちにもっている。生と死を交互に繰り返しながら、人間生命は雄大なうねりをもって永遠に流れている──このことを、みずからの生命の奔流のなかに釈尊はみた。
Human existence includes both life and death. It flows on
eternally, with a powerful force, repeating a cycle of alternating manifest and
latent phases. Shakyamuni saw this in the flow of his own life.
それはもはや、生に執着するがゆえに打ち立てられた霊魂不滅のごとき思想ではなく、厳然たる、一個の生命をつらぬく因果の法則を見きわめたうえでの永遠の生命観である。
His is not a philosophy of the immortality of the soul, arising
from a dogged attachment to life, but a solid affirmation of the eternity of
life based on a recognition of the law of cause and effect unfolding within
each individual life.
この永遠の生命観に立って、死というものを意義づけるならば、死はむしろ生のためのものであるということになる。あたかも、眠りが次の目覚めのための休息であるようなものです。死は生のための方便である。生をより輝かせるためのものであり、生こそ生命の活動の本態《ほんたい》である。生と死とは相対立したものではなく、死はむしろ、生のためのものとして位置づけられる。これが法華経に説かれる「方便現涅槃」(釈尊の仏の生命は永遠であり、衆生に仏を求める心を起こさせるために、方便として涅槃を現じた)ということになるでしょう。
The significance of death in such a view of life’s eternity is
that death exists for the sake of life. It is akin to sleep, which provides us
with the rest we need to awaken once again. Death is an “expedient means” for
life. Death’s purpose is to make life shine brighter, while life is the innate
activity of existence. Life and death are not in opposition to one another;
death exists for the sake of life. This is the meaning of the Lotus Sutra
teaching of “entering nirvana as an expedient means” (see The Lotus Sutra and
Its Opening and Closing Sutras, p. 271)
仏教の本質は、いたずらな悲観主義、厭世観でもなければ、根拠のない楽天主義でもない。人生の苦を直視し、そこから逃避するのでなく、むしろ徹底的に取り組んだ末に到達した、生の歓喜の思想だといってもよい。苦しみから逃避して、真実の喜びはない。人が目をそむけ、逃避しようとしている苦しみを如実に知見し、それに勇敢に挑戦し乗り越えてこそ初めて、金剛不壊の、つきることなき歓喜が込み上げてくるのです。
The essential message of Buddhism is not pessimistic or
negative; nor is it unfounded optimism. Buddhism looks directly at the
suffering of life and offers a philosophy for living with joy by actively
engaging with reality rather than trying to escape from it. There is no true
joy to be had in fleeing from suffering. An indestructible, everlasting and
inexhaustible joy is only achieved by accurately seeing the true reality of the
suffering we would like to escape and courageously rising to its challenge and
overcoming it.