これまでは、基本的な仏法用語を皆さんと一緒にみていきました。
ご興味がおありでしたら、そこから是非ご覧ください。
十界論/The Ten worlds その(1)
十界論/The Ten worlds その(2)
十界互具//the Mutual possession of the Ten Worlds
ご興味がおありでしたら、そこから是非ご覧ください。
十界論/The Ten worlds その(1)
十界論/The Ten worlds その(2)
十界互具//the Mutual possession of the Ten Worlds
私たちはその方法として、三つのことを基本として実践しています。
それを「信」・「行」・「学」といいます。
つまり、「信じること」、「行ずること」、「学ぶこと」です。
それではそれぞれ見ていきましょう。
「信( faith/フェイス)」
「信」は、英語で(faith/フェイス)といいます。
簡単な単語でよかったです。(笑)。
簡単な単語でよかったです。(笑)。
単語は簡単ですが、理解するのは難しいです。
仏とは自分とかけ離れた何かではありません。
また、何かにすがることでもありません。
私たちの「信」とは、「自分の生命」に「仏の生命」があるということを「信じる」ことが基本になります。
信の一字を詮と為す(御書339㌻)
“making [the] single word ‘faith’ the foundation” (WND-1, 785).
大聖人の仏法の肝要は、形式ではない。
「心」である。
「信心」が根本である。
The essence of Nichiren Buddhism is not ritual or formality.
It is our heart.
It is our faith. 「幸福と平和を創る智慧」/ The Wisdom for Creating Happiness and Peace
「行( practice/プラクティス)」
「行」は、英語で(practice/プラクティス)といいます。
自分の生命に仏の生命があるということを確信すること、つまり「信」を深めていくには、経験していくしかありません。
(To develop faith, we must take action)
(To develop faith, we must take action)
頭で理屈を理解しているだけでは、ただの観念論になってしまいますね。
経験していくとは、自分の日常生活の上で、仏界の生命を実感し、知恵を発揮し、
また生命力を増していくのでなければなりません。
そんな自分の生命に仏界を現すために、2種類の実践があります。
それが
(1)「自行(practice for ourselves)」と
(2)「化他行(practice for others)」です。
この2種類は車の両輪にのように両方とも実践していくことが大切になります。
それが
(1)「自行(practice for ourselves)」と
(2)「化他行(practice for others)」です。
この2種類は車の両輪にのように両方とも実践していくことが大切になります。
(1)「自行」
英語で(practice for ourselves」といいますが、自分自身が確信を深めていく行動のことです。
主に「南無妙法蓮華経」を唱えていくことがあげられます。
Practice for ourselves is primarily the chanting of Nam-myoho-renge-kyo.
英語で(practice for ourselves」といいますが、自分自身が確信を深めていく行動のことです。
主に「南無妙法蓮華経」を唱えていくことがあげられます。
Practice for ourselves is primarily the chanting of Nam-myoho-renge-kyo.
唱えるという英単語はchanting(チャンティング)といいます。
「南無妙法蓮華経」とは一切の根元の法(「妙法」the Mystic Law)の呼び名です。
全ての根元の法ですので、一切の生命と環境を動かしていくことが可能です。
※妙法蓮華の詳しい解説はこちら→(『妙法』に『蓮華』がついているって凄いことなんだぜ。〔#225〕)
日蓮(大聖人)は、自身の生命にある仏界(妙法)を南無妙法蓮華経であると説き示し、
それを『御本尊』としてあらわしました。(御本尊とは)
ここで重要なのは、私たち自身にも仏界の生命があるということです。
ここが難しい。
日蓮大聖人は、
若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり(p383)
if you think the Law is outside yourself, you are embracing not the Mystic Law but an inferior teaching.
仏や法が「自分の生命の外」に存在すると思えば、それば妙法ではないと述べられています。
『御本尊』に「縁」することで私たち自身の「仏の生命」が触発されてあらわれてきます。
『御本尊』は私たち自身の仏界を現実に映し出すための「鏡」だと例えられます。
創価学会の第三代会長である池田先生は、次のように語っています。
鏡は、目に見える顔や姿を映す。Mirrors reflect our outward form.
仏法の鏡は、見えない生命をも映しだす。
The mirror of Buddhism, however, reveals the intangible aspect of our lives.
鏡は、反射の法則など光の法則を応用して、姿が映るように工夫した、人間の知恵の成果である。
Mirrors, which function by virtue of the laws of light and reflection, are a product of human wisdom.
御本尊は
On the other hand, the Gohonzon,
『宇宙』と『生命』の法則に基づいて、
based on the law of the universe and life itself,
“汝自身”の実相を見つめ、成仏できるようにした、仏の『智慧』の究極であられる
is the culmination of the Buddha’s wisdom and makes it possible for us to attain the Buddhahood by providing us with a means of perceiving the true aspect of out life
引用元:日本語:『親愛なるアメリカの友へ』/英語:MY DEAR FRIENDS IN AMERICA
(2)化他行
「化他行」は英語でpractice for othersといいます。
これも十界シリーズの「菩薩界」のところで説明しましたが、仏界という生命状態を自身が求めていくだけでなく、
他者に対しても幸福を願い、仏界の生命状態が現れるように伝え行動していこうとすることを意味します。
「化他行」は英語でpractice for othersといいます。
これも十界シリーズの「菩薩界」のところで説明しましたが、仏界という生命状態を自身が求めていくだけでなく、
他者に対しても幸福を願い、仏界の生命状態が現れるように伝え行動していこうとすることを意味します。
この「自行」と「化他行」の両方の実践が大切になります。
「学 study/スタディー」
「学」は英語で、そのままstudyです。
最も基本となるものは大聖人のしたためられた書き物(教義や手紙を全てひっくるめて御書とよびます)を勉強することです。
勉強することで、信仰への確信と理解につながっていきます。悩みに直面したときは御書にかえれと言われるのはこのためです。
勉強することで、信仰への確信と理解につながっていきます。悩みに直面したときは御書にかえれと言われるのはこのためです。
それでは最後に、初代会長の牧口先生の言葉をご紹介しましょう。
信じているだけの「信者」ではいけない。
It isn't enough to simply have faith and be a believer.
学んでいるだけの「学者」でもいけない。
It isn't enough just to study and be a scholar of Buddhism.
他者のための行動に打って出る「行者」とならなければ、仏法はわからない。
We cannot truly understand Buddhism unless we are
practitioners who take action for the happiness of others.
素晴らしき人生を!