にょがとうむい |
法華経には、「如我等無異(にょがとうむい)」という言葉が出てくるの。
弟子の舎利弗さんに釈尊が、
「『如我等無異』という誓いと立てたんですよ」って説明するくだりが「方便品」で登場するんだ。
「如我等無異」とは、
「我が如く等しくして異なること無からしめん/hoping to make all persons equal to me, without any distinction between us」ということで、
「全ての人々をわたしと等しくして異ならないようにしたい」というような意味となり、
これが「仏の願い」だということが描かれている。
「崇めなさい」といっているのではなく、「同じくしたいんだ」という点。
衆生が仏になってほしい、仏だと悟ってほしいという願い。
よくよく考えてみると、これは本当にすごいことで、
未だにこの仏の概念が人々に浸透していないところが、
頭で理解しようとしても絶対にわからないことをあらわしているんだ。
人は、
仏の偉大さはいくら理解できても、自分が仏であること、仏になるべきこと、このような理解は超えてしまう。
拝むことや、願うこと、こういった外へのエネルギーは出せるんだけども、
エネルギーを自分の中で働かせようとすること、自分の中でキャッチしていくこと、このように捉えることは難しい。
それには、誰かではなく、自分で自分の命を動かしていく以外にはつかめないからだ。
命が動かないと法は動かない。
釈尊が「自身と法を拠り所としなさい」と弟子に伝えたのも、
大聖人が「心の外に法を求めてはいけない」「仏と成(ひら)きなさい」と伝えたのも、
先生が、いろんな人の人間革命を小説で書き続けるのも、
すべては同じ概念、
自分たちは亡くなっても、「生きている人達の命に法があらわれること」を知っているからだ。
彼らが常に一貫しており、ブレることはない。
ブレるのはいつの時代でも、
心が迷い、自分の中で法が現れるということを信じない私たちの方だ。
動かす本体が、信じられないという思いと戦わなければならない。
「信心」とは、「心を信じる」と書く。
命にあらわしていく自分をつくっていくこと。
これを「妙法と一体になる」とも表現される。
一体になる。
「如我等無異」とは、まさしくこれを伝えようとしているのだ。
この一番浸透していない、一番大事な仏の概念こそが、
まさしく創価学会の核心部分である。