水を使えなかったら、ポンプに意味はない。 〔#274〕

知識と知恵



「知恵」のない「知識」をいくら集めても、
価値は生まれない。

習った「知識」を記憶しているだけでは
観念です。


We can accumulate all the knowledge we like, but without wisdom to guide us, it produces nothing of value. Memorized information alone always remains on the level of the conceptual.

・・・

「知識」は「知恵」を生むものです。
いわば「知識」はポンプ、
「知恵」はポンプによって得られる水です。

水を使えなかったら、
ポンプに意味はない。


Knowledge gives rise to wisdom.
If you like, knowledge is the pump;
wisdom is the water that we get from the pump.

If we cannot open obtain water, the pump is useless.


引用元:(日本語)青春対話Ⅱ P204 /(英語)Discussion on youth P366

みなさん、こんにちは。

さて、今回は先生のなかなかエッジの効いた例えを紹介してみました。

そういえば、戸田先生のこんな話とも繋がってきますね。


経典があるといったって、経典は仏法じゃありません。
...There may be sutras ,but sutras are by no means Buddhism.

あれは本ですよ、本です!
They are just books!
信仰がなければただの本にすぎない。
For without faith, sutra are nothing more than books.”


「知識」も、「経典」も、それは何のためなのかに繋げてこそ価値が生まれる。

そう言われれば、なるほどそうかもしれないと頭ではわかるのですが、人は簡単に、知識や理論、意味しているところの「理解力」で勝負したくなるものです。知っているということは、ある意味「強い」からです。

だからこそ、智慧第一の舎利弗が8歳の竜女にぐうの音も出ないほど簡単に打ち負かされるストーリーが法華経に書かれている最大の理由も、その「強さ」が「仏になれる」ということとは違うんだよということがあるのかもしれません。法華経は実に見事に描かれています。

六万蔵の経典を記憶した提婆達多より、十四文字を暗記できなかった修利槃特(すりはんどく)の方が仏になる。これもそうです。

「理解する」というのと、「体得する」というのは、一見似たように思えるのですが、ちゃんとみていくと、「ポンプ」と「水」ほどの価値の違いがあることがわかります。

舎利弗と提婆達多は「ポンプ」を見て、竜女と修利槃特は「水」を見ているといえますね。

例えば「読み方」で、文上」とか、「文底」などと言われるところにも、もしかしたら繋がってくる話かもしれません。だからそれは何のためなのか、どうしたらいいのか、実際に水を得るための読み方をすべきなんだよと言われているような気がします。

なおかつ、ポンプを動かし文底の水を吸い上げる動力となるのは、自分の「信」だともいえますね。動かすのは自分です。自分の「信」に筋肉がないと、必要な時にパワー不足で水も得ることはできません。


ですから、日々の筋トレがとても大切になるということですね。

「マッチョマンは一日にしてならず」ということ。

筋肉は裏切らないのです。笑。




素晴らしき人生を!




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