『あたし、拠点にしたいの』の巻 〔#145〕

創価学会の拠点
学会の拠点


地区で座談会などをするときには、個人のお宅が会場になるのですが、

そのお宅のことを、「拠点」って私たちは呼んでいます。


以前ブログでも取り上げていますが

私たちがメインでやっている地区の単位での活動は、

こういった「拠点」で繰り広げられているのです。


私のアパートは拠点となれるような住居環境ではないのですが、

ずっと密かに温めている野望(?)がありまして、

それが、

「住居を『すんごい拠点』にしたいぞぉぉ!」ってやつなのです。


・・・はい。


私の祈りには必ずこれが含まれています。

夢は膨らむ一方です。笑。


階段を登らないといけないと、じーちゃんばーちゃんがきついだろうし、

仏壇が隅っこにあると、

角度的に御本尊様が視界に入る人は少数で、御本尊様を見ているのか、仏壇そのものを見てるのか、おっさんの頭をみてるのか(笑)、何に祈っているのか分からなくなって、ちょっと笑けてくるし、

玄関をあけてすぐ会場になっている方が、初めて入る人には抵抗が少ないだろうし、

と、このように何だかんだいろいろ理想が膨らんでいくのです。


そういう意味では、拠点って難しいんですよね。



そういえば、新聞や大白蓮華などに載っている、「座談会の写真」って見てるとおもしろいですね。

日本の座談会だと中心者の話でみんな爆笑している姿を撮られている率が高いですが、

海外の座談会の写真をみると、みんなで円陣を組んで、割と真顔で話しあっている姿を撮られている率が高いです。

だから何だって話ですが(笑)、

イメージだと、海外で爆笑していて、日本で真剣にやっている感じがしますが、結構逆なんですよね。日本人って意外と人を笑かそうとするところを真剣にやります。役職があればあるほど、笑える話など、ちょっとした小話をいくつも隠し持っています。

どっちの座談会もいい。



そんなこんなで、拠点の話に戻りますが、

最近は自分の中でちょっと「心境の変化」といいますか、

ちょっとだけ意識が変わりつつあるんです。


もちろん今でも、みんなが集まって来やすい、ででーんとした拠点をつくりたいという祈りはあります。

だけれど、

このせせこましい、おんぼろなところでも、

拠点の要請があれば、喜んでどんどん提供するようにしたのです。



ここは、確かに自分の思い描いている、提供したいと思っている場所ではないけれども、

拠点で使ってもらおうと。


テーブルやソファーを移動すればみんなが座れるし、

仏壇もちっちゃいけど、みんなが見やすい位置にすればいいんだし、

工夫すればちゃんと拠点にもなる(笑)。

大丈夫、大丈夫。



「いつかこうしよう」と思う気持ちはとても大切なんだけど、

それが強すぎると、じゃあ「今の自分」は、それまでどこにいるんだって思うんですよね。

「いつか」にたどり着くまでの過程でしかないんだろうか。



確かに、

「いつか」そうなるために活動したり、題目をあげたりします。

それを目指す、叶えるために、妙法がある。

これは、ごく自然な捉え方で、何も問題はありません。



最近、よく考えるんですけど、

今自分が死んでしまうなら、その自分は不幸なんだろうか。

「いつか」という目指すものにたどり着けないで終わることは、不幸なんだろうか。

願いを叶えるために妙法があると、そこばかり見てしまうと、

たどり着けない「今の自分」を苦しみ、

完成される「いつか」の自分に思いをはせ、今の自分をただ不完全だと思い、今自分が途絶えることを恐れてしまう。




でも、たぶんそいういうことではないと思うんです。

今の、この瞬間の自分も、等しく完成されているはずなんです。



なぜなら、もともと私たちは完成された妙のリズム、「仏」が中にあって、

本当の目的というのは、自分の中にある「仏」を出していくことだったはず。


ということは、人生において「不完全」っていうのは、

目的が達成されていないこと、というわけではなくて、

この「仏」を全開に出せているのかどうかということになるはずだからです。


つまり、

目標や、叶えたいもの、そして、どんな人生になるのかさえも、

それが到達点ではなくて、

「仏」を全開にさせるための一つの手段になるってことなんです。



このようにとらえれば、

今どんな状態でも、自分の仏性が開いているかどうかというところに本質があって、

いつ死んでも、人生を閉じた切り口が、「金太郎飴」をカットしたように、

最高の仏が開いた状態で終えることができる。


今の自分が最高の存在になる。


これって、実はすべてに共通するんじゃないかと思うんです。



活動できるようになってから活動する。

折伏できるようになってから折伏する。

いつか幸せになる。


こんないつかの最高の自分より、今の最高を出していくってこと。


「臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人」
one who summons up one’s faith and chants Nam-myoho-renge-kyo with the profound insight that now is the last moment of one’s life


どの瞬間をカットされても、微笑んだ金太郎がキレイに見えている生き方をしていきたい。

そう思う今日この頃です。

では!




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