法華経って釈尊の教えなの?(2) 〔#037〕

釈尊のイラスト

みなさん、こんにちは。

今回は『法華経』を取り上げてみようと思います。

前回、釈尊についてを簡単に書いていますが、その続きです。


さて、「仏教」とは何なんでしょうか。

ざっくり言うと、

「さかのぼれば、釈尊が直接説法したと言われている内容」、「またその教えがルーツになっているもの」をまとめて「仏教」と呼びます。

ですから、「仏教」と一言で言っても、

本当にさまざまなものがあり、さまざま解釈があり、さまざまな取り上げられ方をされています。

言い換えれば、それほど釈尊という人物が伝えたものは、
何か人々の心にしっくりくるんだと思うのです。

仏教をやっている人たちは、もちろん違いがありますが、異なる形で敬意を表し、次の世代に継承していこうと取り組んでいる人たちだと思います。

私たちももちろん例外ではありませんよ(笑)。

・・・・。

たまに言われるのです。君たちは日蓮仏法であって、釈尊じゃないだろと。

確かに、今私たちは、「南無妙法蓮華経」と唱え、活動しています。釈迦そのものであれば、釈迦の説法だったり、釈迦の像を対象にすればよいのでしょうが、なぜそうしないのでしょうか。その理由を説明するためには、釈尊が説いた法をひもとかなければいけません。

ひもとく法は、「法華経」です。

私たちが釈尊のことを勉強するのは、説いた法

「釈尊だから」というよりも(もちろん大尊敬しておりますが)、法華経に説いた「法」があるからです。ですから、釈尊そのものを信仰しておりません。微妙なことを言ってすみません。
釈尊の教えは数限りなくなりますが、何を説いたのかに迫っているのが法華経だからということなんだと思います。

ここで疑問に思う方がいるかもしれません。

数あるなかで、そもそもなぜ法華経なのか、

そこからなぜ日蓮で、なぜ創価にいくのか。

ここに全ての疑問をとくカギがあるかと思います。

もちろん、私は学会員の中でも優れた頭を持っているわけでもありませんし、まだ浅い知識の私が語ったところで、さほど変わらないかもしれませんが、皆さんにこんな意見もあるんだと知っていただくだけでも意義があると思っております。



まず、今回は取り上げるのは、なぜ法華経なのかについてです。

釈尊の教えとして法華経を出すと、少し抵抗がある方が見受けられます。

・・・といっても、ピンとこない方のために少しご説明したいと思います。

法華経は本当に釈尊の教えなのか?



釈尊は生涯にわたって教えを説く時、「口頭」で人に伝えていきました。

よって、いろんな人に伝えているんですが、それを直接文字では残してはいないのです。

釈尊が説いたとされるものは「全て」釈尊が亡くなった後に、弟子たちによって伝え継がれたものが文字として残されるようになったようです。

釈尊が亡くなった後すぐ、直弟子たちが集まって釈尊が何を伝えていったのかを編纂し、まとめる動きがありました。それらを仏典結集というそうです。直弟子たちは、まずみんなで暗唱する方法で残しており、実際に文字になったのはだいぶ後になりますが、それ以後釈尊の教えだとするものはさまざまな形に派生していくことになります。

法華経が出来上がったとされているのは紀元前1世紀~2世紀頃。釈尊が亡くなってから400年以上たってからの経典になります。

ここで何が引っかかってくるのかといいますと、

釈尊の言葉を直接聞いている直弟子たちの編纂したもの(つまり釈尊の教えをそのまま聴いたものに近い)ではなく、少なくとも法華経を編纂した弟子たちは直接釈尊には会ったことがない人たちなので、

釈尊の言葉からは遠い、もっと言うと、法華経は釈尊の教えではないという意見になります。

そういう意見の出るもう一つの理由に、
法華経のストーリーがとっても。。。

とってもファンタジー。。。

イエス、イッツ、ファンタスティック!

表面的に見ていくと、空中に浮かんでたり、急にものすごい数の菩薩たちが突然湧き上がったりするので、そんなことを釈尊が言っていないだろうということになるんだと思います。少なくともこのスターウォーズばりのファンタジーの世界観が、どうしてもうけつけられない。(笑)。

確かに(笑)。

でも、そうなると逆に疑問に思うのです。

後世で絶対に批判される(笑)ことをおそらく覚悟の上で、そのストーリー構成にしているのはなぜだろう。
なぜそこまでして、わざわざ「法華経」として釈尊の法を残そうとしたのだろう。

そうせざる終えなかった理由を考えてみる必要があるかと思います。

結論から申しますと、
わざわざ法華経をつくった点は、もう一度釈尊が何を言ってたのか、釈尊が何に目覚めたのか、そこにもう一度戻ろうとしたのかもしません。

すでに法華経が出来てくる時代は、釈尊はすでに実在していた人というより、絶対的な神様になってしまっていたと思うのです。一人の人間が、現実に目の当たりにした苦悩から何とか人々を救える考え方がないか必死で探していた、そういうところから離れてしまったと感じたのではないでしょうか。生身の人が人間から離れてしまったら、人の苦悩から何を覚ったのか、その法も現実から離れてしまう。法も人もすでに離れてしまったと感じたのかもしれません。

釈尊が絶対的な神様なら、弟子は神様になろうとは思いません。
それにすがるが、せめてその下の位でいさせてもらいたいとなってしまう。

でもそれだと、釈尊の法は死んでしまう。

釈尊は本当に神様だったのだろうか。
ただ、それでは釈尊が何のために法を説いたのかわからなくなってしまう。
だれでも持っている「不死の境地」を教えるために、みんなに法を説いたのだから。

釈尊は、釈尊だから尊いのではなく、釈尊が広めようとした法が尊いからだ。

では、法とは何だったのだろうか。

そして、どうしたら「全ての人に」「その法の全て」を余すところなく伝えることができるのか、考え抜いたのかもしれません。

そもそもこの法は、分かる人にだけわかるだけではだめなのだ。みんなが分かるものにして初めて釈尊が伝えたかった法が再び蘇生してくるはすだ。

もしかしたら、遺言の真意を改めて考えたのかもしれません。

「自分(釈尊)がいなくなっても法は生きている。
これからはその説いた法を灯とし、弟子たち自身が正しい法と自分自身を拠り所をしなさいと。」


自分から離れずに、厳然とある法をみなさい。

その法を灯とすれば、自分はその拠り所になる。

つまり、人のままでなければ法はいきてこない。

この「人」と「法」の関係。

ここをぐーっと考えていったのが、法華経を編纂した弟子たちなのかもしれません。すべてのファンタジーも、登場してくる菩薩たちもすべて、この人と法の関係を突き詰めていったものだといえると思います。

法華経は釈尊の教えなのかどうか。

どう捉えても構わないと思いますが、比喩だらけのファンタジー物語が何を言おうとしているのか、少し興味を持っていただけたら嬉しいです。

(→なぜ釈尊を信仰しないのか。法華経の正体と日蓮仏法の違い


へルマン・ヘッセ 『書物』より
Hermann Hesse "Books"

この世のどんな書物も
君に幸福をもたらしてくれはしない
けれども書物はひそかに君をさとして
君自身の中へ立ち返らせる
All the books in the world
Will not bring you happiness,
But they will quietly lead you
Back inside yourself

そこには太陽も星も月も
君の必要なものはみんなある
君が求めている光は
君自身の中に宿っているのだから
There you will find all you need,
Sun, stars and moon,
For the light for which you search
Dwells withn you

そうすると君が書物の中に
長い間 捜し求めていた知恵が
あらゆる頁から光ってみえる —-
なぜなら今その知恵は君のものとなっているから
The wisdom you so ling sought 
In books,
Will then shine forth from every page
For now that wisdom has become your own.」
(『生きることについて』、三浦靭郎訳・編、社会思想社)

法華経の内容についてはそのうちUPしていきたいと思います。

(→法華経序品はこちら

では!



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