法華経のストーリーを見ていこう(譬喩品第三ひゆほんだいさん/Simile and Parable) Chapter 3 〔#040〕

法華経の譬喩品第三のあらすじ









いやー法華経って面白いですね。確かに一生に一度は読んでおいた方がよさそうです。

でも編纂した弟子たちは、本当にすごいなあと思いますね・・・。

特に、これを訳した鳩摩羅什は、一体どんな頭の構造をしているんでしょう。

現代人の脳みそは発展しているはずなのに、キャッチできる感性というか、こういう部分は退化しているのかなあ。

これが末法の人々ってやつなのかも・・・と、しみじみ思いました。

さて、今回は序品第一方便品第二に続き、今回は譬喩品(ひゆほん)第三です。

ところで、

譬喩品なのに、どうして英語の法華経は「Simile and Parable」と訳されているのでしょう。parableは例え話っていう意味なのでいいのですが、なぜその前にスマイルがつくのでしょうか。面白いですね。

※追記)

ガビーンっ!スマイル「smile」 じゃなかった!シーミレ「Simile」だった(笑)!

びっくりしたよぅ。

だよね~、

何で「笑って譬えます」ってタイトルがついてるんだろう、って思っちゃってた。

爆笑するほど話はポップじゃないし。

Simile は「直喩」という意味で、表したい内容をそのままたとえ話にしてますよっていう感じでしょうか。気が付いてよかった。。


では、気を取り直して、今回は「譬喩品」について一緒にみていきましょう。

譬喩品第三ひゆほんだいさん/Simile and Parable 簡単あらすじ


舎利弗がむちゃくちゃ喜んでいるところから
物語がスタートします。(なぜ喜んでいるのかは方便品参照)

爾時舎利弗踊躍歓喜、即起合掌、瞻仰尊顔、而白仏言、「今従世尊聞此法音、心懐踊躍、得未曾有・・・

 爾(そ)の時、舎利弗は踊躍歓喜(ゆやくかんき)し、即(すなわ)ち起(た)ちて合掌し、尊顔(そんげん)を瞻仰(せんごう)して仏に白(もう)して言(もう)さく、「今、世尊従(よ)り此の法音を聞き、心に踊躍(ゆやく)を懐(いだ)き未曾有なることを得たり・・・」

At that time Shariputra’s mind danced with joy. Then he immediately stood up, pressed his palms together, gazed up in reverence at the face of the honored one.

釈尊より年上だとされる舎利弗が立ち上がって喜びを表すので、本当にうれしかったんだと思います。

方便品でさんざんな言われ方をしていましたので(笑)。

そして、詩でこのようなことを伝えます。

我聞是法音 得所未曾有 心懐大歓喜 疑網皆已除 
我れは是(こ)の法音を聞いて 未曾有なる所を得て 心に大歓喜を懐き 疑網(ぎもう)は皆已(すで)に除(のぞ)こりぬ

釈尊は私がきっと仏となるであろうとお説きになったこの法の音を聞き、私の疑いや後悔の思いはすべて取り除かれました。

the Buddha declared that I will become a buddha.When I heard the sound of this Law my doubts and regrets were all wiped away.

※聞如是法音・・舎利弗が疑いなどからパーンと開けたのは、「法の音を聞いた」からだそうです。”When I heard the sound of this Law”というフレーズをこの詩の中で2回登場させて歓喜しています。ここでは「この法を」と言わず、「法の音を」と言っています。変なところからぶっこんできて申訳ないですが、日蓮(大聖人)は言葉では言いあらわすことができない法の音とは何だ?と深く考えていたのかもしれません。。よ
それはそうとして、その後舎利弗はこのように決意します。

我定当作仏 為天人所敬 転無上法輪 教化諸菩薩
我れは定めて当(まさ)に作仏して 天人の敬(うやま)う所と為(な)り 無上の法輪を転じて 諸(もろもろ)の菩薩を教化すべし 

私は必や仏となり 天や人間に敬われ、この最極の法を説き、菩薩たちを教化していくでしょう。
I am certain I will become a buddha, to be revered by heavenly and human beings, turning the wheel of the unsurpassed Law and teaching and converting the bodhisattvas


これを聞いて釈尊は、奇妙なことを言います。

それは、釈尊は過去にずっと舎利弗にこれを言い続けてたんですよと語ります。

このような内容です。

舎利弗。我昔教汝志願仏道。汝今悉忘、而便自謂已得滅度。
舎利弗よ。我れは昔、汝をして仏道を志願せしめき。汝は今悉(ことごと)く忘れて、便(すなわ)ち自ら已(すで)に滅度を得たりと謂(おも)えり。

舎利弗よ、私は過去に、あなたが仏道を志し、願うように教えていたのです。しかし、今それを全てを忘れてしまっているので、自分が煩悩を消し去ったと思っているのです。

Shariputra, in the past I taught you to aspire and vow to achieve the buddha way. But now you have forgotten all that and instead suppose that you have already attained extinction.

我今還欲令汝憶念本願所行道故、為諸声聞説是大乗経、名妙法蓮華、教菩薩法。仏所護念。
我れは今還(かえ)って汝をして本願もて行ずる所の道(どう)を憶念(おくねん)せしめんと欲するが故に、諸の声聞の為に是の大乗経の妙法蓮華と名づけ、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるるを説く。


今、私は、あなたに本来願った道を思い起こさせるため、そして声聞たちのためにも、妙法蓮華と名づくこの大乗経を説くのです。

Now, because I want to make you recall to mind the way that you originally vowed to follow, for the sake of the voice-hearers I am preaching this great vehicle sutra called the Lotus of the Wonderful Law

recallリコールというと、映画のトータルリコールを思い出します。

火星に人が観光で行く時代に、行ったこともない火星に何か弾かれるものがあり、バーチャルで行けるソフトで自分の理想の女性を作っていく過程でも、何かしっくりくる女性を自分で作っていくというのがありました。実際その主人公は記憶を消されてただけで、自身は火星にいたことがあり、その女性とも会っていたというやつです。

ここでは、recall to mind「思い起させる」ですが、直訳すると、 「意識」にもう一度上がるように呼びかけるという意味で、六識に上がってくるように引っぱってきたイメージになります。九識論の世界ですね。

そして、舎利弗に、

未来においては正法を奉持し、菩薩の全ての側面を備え、必ず仏になれるでしょう

舎利弗。汝於未来世過無量無辺不可思議劫、供養若干千万億仏、奉持正法、具足菩薩所行之道、当得作仏。
舎利弗よ。汝は未来世に於いて、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持(ぶじ)し、菩薩の行ずる所の道(どう)を具足し、当に作仏することを得べし

will honor and uphold the correct teachings. You will fulfill every aspect of the way of the bodhisattva and will be able to become a buddha

そして、その名前を華光如来(Flower Glow Thus Come One)と名付けられるでしょうと言われます。

舎利弗さん、嬉しかったでしょうね。

さて、舎利弗は他に聞いている弟子たちのためにも、「未だかつて聞いたことのない法」のいわれを説いていただけるように釈尊にお願いします。

爾時舎利弗而白仏言、世尊。我今無復疑悔。親於仏前阿耨多羅三藐三菩提記受得。是諸千二百心自在者、昔住学地、仏常教化言、我法能離生老病死、究竟涅槃。是学・無学人、亦各自以離我見及有無見等、謂得涅槃。而今於世尊前、聞所未聞、皆堕疑惑。善哉世尊。願為四衆。説其因縁。令離疑悔。
爾の時、舎利弗は仏に白(もう)して言(もう)さく、「世尊よ。我れは今復(ま)た疑悔(ぎけ)無し。親(まのあた)り仏前に於て阿耨多羅三藐三菩提の記(き)を受(う)くることを得たり。是の諸の千二百の心自在なる者は、昔、学地(がくじ)に住せしに、仏は常に教化して言(のたま)わく、『我が法は能(よ)く生・老・病・死を離れて涅槃を究竟(くきょう)すと』と。是の学・無学の人も亦(ま)た各おの自ら我見及び有無の見等を離れたるを以て、涅槃を得たりと謂えり。而るに今、世尊の前(みまえ)に於て、未だ聞かざる所を聞いて、皆な疑惑に堕せり。善き哉。世尊よ。願わくは四衆の為に其の因縁を説いて疑悔を離れしめたまえ」と。


それに応えて説かれたのが有名な「三車火宅(さんしゃかたく)の譬え/parable of the three carts and the burning house 」です。


 ーーーーーーーー(たとえ話)--------
舎利弗。若国邑聚落、有大長者。其年衰邁、財富無量、多有田宅及諸僮僕。其家広大、唯有一門、多諸人衆、一百・二百、乃至五百人、止住其中。堂閣朽故、墻壁頽落、柱根腐敗、梁棟傾危。
舎利弗よ。国邑聚落(こくおうじゅらく)に、大長者有るが若(ごと)し。其の年は衰邁(すいまい)して、財富無量(ざいふむりょう)なり。多く田宅(でんたく)及び諸の僮僕(どうぼく)有り。其の家は広大にして唯(た)だ一門有り。諸の人衆(にんしゅ)多くして、一百・二百乃至五百人其の中に止住(しじゅう)せり。堂閣(どうかく)は朽ち故(ふ)り、墻壁(ぞうひゃく)は頽(くず)れ落ち、柱根(ちゅうこん)は腐(く)ち敗れ、梁棟傾き危(あやう)し。

舎利弗よ、ある国のある街に大長者がいたとしましょう。年を取ってはいますが、多くの財産があるのです。長者はたくさんの土地、家、使用人たちがいました。家は非常に大きいのですが、門が一つしかありません。たくさんの人、100、200人、あるいは500人は住んでいたかもしれません。堂閣は朽ちており、壁は崩れ、柱は根元が腐敗し、梁や棟が曲がって傾いていました。

Shariputra, suppose that in a certain town in a certain country there was a very rich man. He was far along in years and his wealth was beyond measure. He had many fields, houses, and menservants. His own house was big and rambling, but it had only one gate. A great many people—a hundred, two hundred, perhaps as many as five hundred—lived in the house. The halls and rooms were old and decaying, the walls crumbling, the pillars rotten at their base, and the beams and rafters crooked and aslant.

周帀倶時、欻然火起、焚焼舎宅。長者諸子、若十・二十、或至三十、在此宅中。長者見是大火従四面起、即大恐怖、而作是念、我雖能於此所焼之門、安穏得出、而諸子等於火宅内、楽著嬉戯、不覚不知、不驚不怖、火来逼身、苦痛切己、心不厭患、無求出意。
周帀(しゅうそう)して倶時(ぐじ)に、欻然(こつねん)に火は起こって、舎宅を焚焼(ぼんしょう)す。長者の諸子、若しは十・二十・或は三十に至るまで、此の宅(いえ)の中にあり。
長者是の大火の四面より起こるを見て、即ち大いに驚怖して、是の念(おもい)を作(な)さく、『我は能く此の焼くる所の門より、安穏に出(い)ずることを得たりと雖も、諸子等は火宅の内に於て、嬉戲(きけ)に楽著(ぎょうじゃく)して、覚えず知らず、驚かず怖じず。火来(きた)って身を逼(せ)め、苦痛己を切(せ)まれども、心に厭患(えんげん)せず、出でんと求むる意(こころ)なし』と。

その時、突然火がでて、家の至るところで燃えだします。長者の子どもが10、20人、あるいは30人がその家の中にいたのです。長者は四方から大きな炎が上がるのを見、大変に驚き恐れ、このように思います。自分はこの焼けている門を通って逃げ切ることができるけれども、子供たちは燃えている家の中にいて、嬉しそうに遊び戯れている。それに気が付かず、知らず、警戒も恐れも知らないでいる。火は子供たちに迫り、苦しみや痛みに迫られているのに、まだ彼らの心に感じることはなく、脱出しよういうともしないのだと。

“At that time a fire suddenly broke out on all sides, spreading through the rooms of the house. The sons of the rich man, ten, twenty, perhaps thirty, were inside the house. When the rich man saw the huge flames leaping up on every side, he was greatly alarmed and fearful and thought to himself, I can escape to safety through the flaming gate, but my sons are inside the burning house enjoying themselves and playing games, unaware, unknowing, without alarm or fear. The fire is closing in on them, suffering and pain threaten them, yet their minds have no sense of loathing or peril and they do not think of trying to escape!

舎利弗。是長者作是思惟、我身手有力。当以衣裓、若以几案、従舎出之。
舎利弗よ、是の長者は是の思惟(しゆい)を作(な)さく、
 『我れは身手(しんしゅ)に力有り。当に衣裓(えこく)を以て、若しは几案(きあん)を以て、舎(しゃ)より之を出すべし』と。

舎利弗よ、この長者はこのように思ったでしょう。自分にはまだ体力と腕力がある。。服で彼らを包んでひとまとまりにするか、あるいは彼らを台におくなりして、家から運びだすことができるかもしれないと。
Shariputra, this rich man thought to himself, I have strength in my body and arms. I can wrap them in a robe or place them on a bench and carry them out of the house.

復更思惟、
是舎唯有一門、而復狭小。諸子幼稚、未有所識、恋著戯処、或当堕落、為火所焼。我当為説怖畏之事。此舎已焼。宜時疾出、無令為火之所焼害。

復た更に思惟すらく、
 『是の舎(いえ)は唯だ一門ありて、而も復た狭小なり。諸子は幼稚にして、未だ識る所あらず、戲処(けしょ)に恋著(れんじゃく)し、或は当に堕落して火の焼く所と為るべし。我れは当に為に怖畏(ふい)の事を説くべし。此の舎は已に焼く。宜しく時に疾(と)く出でて、火の焼害する所と為らしむことなかるべし』と。

またこのように思うのです。この家には門は一つしかなく、しかも狭くて小さい。子供たちはまだ幼く、理解できないだろう。遊びに夢中で火に焼かれそうになっている。これが恐ろしい事なんだということをどうにか伝えなければいけないと。この家はすでに炎に包まれている。早く子供たちを外に出さねば火に焼かれてしまうだろう!

 And then again he thought, This house has only one gate, and moreover it is narrow and small. My sons are very young, they have no understanding, and they love their games, being so engrossed in them that they are likely to be burned in the fire. I must explain to them why I am fearful and alarmed. The house is already in flames and I must get them out quickly and not let them be burned up in the fire!

作是念已、如所思惟、具告諸子、汝等速出。
父雖憐愍、善言誘喩、而諸子等楽著嬉戯、不肯信受、不驚不畏、了無出心。
是の念を作(な)し已(おわ)って、思惟する所の如く、具(つぶさ)に諸子に告ぐらく、
『汝等速かに出でよ』と。
父は憐愍(れんみん)して善言(ぜんごん)をもて誘喩(ゆゆ)すと雖も、諸子等は嬉戲に楽著し、肯(あ)えて信受せず、驚かず畏れず、了(つい)に出ずる心なし。

このように考えて、子供たちにこう呼びかけたのです。「おまえたち、早く外に出てくるんだ!」と。父は何とかして誘い諭そうとしたのですが、子供たちは遊びに夢中で父に耳を貸そうとしません。驚きも恐れもしないし、家を出ようという心がありませんでした。

“Having thought in this way, he followed his plan and called to all his sons, saying, ‘You must come out at once!’ But though the father was moved by pity and gave good words of instruction, the sons were absorbed in their games and unwilling to heed him. They had no alarm, no fright, and in the end no mind to leave the house.

亦復不知何者是火、何者為舎、云何為失。但東西走戯、視父而已。
亦復た、何者か是れ火、何者か為れ舎、云何なるをか失うと為すを知らず。但だ東西に走り戲れて、父を視るのみ。

さらに言うなら、子供たちは火とは何であるか、家とは何であるか、何を失うのかも理解できないのです。だた、東西に走って遊び、父に耳を貸さず見ているだけなのです。

Moreover, they did not understand what the fire was, what the house was, what danger was. They merely raced about this way and that in play and looked at their father without heeding him.

爾時長者即作是念、
此舎已為大火所焼。我及諸子若不時出、必為所焚。我今当設方便、令諸子等得免斯害。

爾の時、長者は即ち是の念を作さく、
『此の舎は已に大火に焼く所と為る。我及び諸子は、若し時に出でずば、必ず焚く所と為らん。我れは今当に方便を設けて、諸子等をして斯の害を免るることを得せしむべし』と。

その時、長者はこのように考えます。この家はもうすでに巨大な炎で焼かれている。もし自分とこの子たちが外に出なければ、焼け死んでしまうだろう。今こそ方便を使って、子供をこの災害から免れさるようにしなくてはいけない、と。

“At that time the rich man had this thought: The house is already in flames from this huge fire. If I and my sons do not get out at once, we are certain to be burned. I must now invent some expedient means that will make it possible for the children to escape harm.

父知諸子、先心各有所好、種種珍玩奇異之物、情必楽著、而告之言、
汝等所可玩好、希有難得。汝若不取、後必憂悔。如此種種羊車・鹿車・牛車、今在門外、可以遊戯。汝等於此火宅、宜速出来。随汝所欲、皆当与汝。

父は、諸子の先心(せんしん)に各おの好む所ある種種の珍玩奇異(ちんがんきい)の物には、情(こころ)必ず楽著せんと知って、之に告げて言わく、
『汝等が玩好(がんこう)す可(べ)き所は、希有にして得難し。汝若し取らずば、後に必ず憂悔(うけ)せん。此の如き種種の羊車(ようしゃ)・鹿車(ろくしゃ)・牛車(ごしゃ)は、今門外(もんげ)にあり、以て遊戲すべし。汝等此の火宅より、宜しく速かに出で来るべし。汝が欲する所に随って、皆な当に汝に与うべし』と。

父は子供たちのことをよく理解しており、新しいものや、珍しいおもちゃや、変わったものを喜ぶことを知っていましたので、このように伝えたのです。「とっても珍しく、手に入れるのが難しいものがあるよ。手に入れられる時に手に入れないと、絶対後悔するよ」と。「こんなのがあるよ。羊の車、鹿の車、牛の車だよ。いま門の外にあるんだ。この燃えている家から外に出てくれば、全部あげるよ!」と。

“The father understood his sons and knew what various toys and curious objects each child customarily liked and what would delight them. And so he said to them, ‘The kind of playthings you like are rare and hard to find. If you do not take them when you can, you will surely regret it later. For example, things like these goat-carts, deer-carts, and ox-carts. They are outside the gate now where you can play with them. So you must come out of this burning house at once. Then whatever ones you want, I will give them all to you!’

爾時諸子聞父所説珍玩之物、適其願故、心各勇鋭、互相推排、競共馳走、争出火宅。
 爾の時、諸子は父の説く所の珍玩の物を聞くに、其の願に適えるが故に、心は各おの勇鋭(ゆえい)して、互相(たがい)に推排(すいはい)し、競いて共に馳走し、争いて火宅を出ず。

子供たちは、父が珍しい玩具について言っているのを聞き、ただ欲しいと思う一心で、互いに押し合い、競い争って、燃えさかっている家から飛び出してきたのです。

“At that time, when the sons heard their father telling them about these rare playthings, because such things were just what they had wanted, each felt emboldened in heart and, pushing and shoving one another, they all came wildly dashing out of the burning house.


是時長者見諸子等安穏得出、皆於四衢道中、露地而坐、無復障礙、其心泰然、歓喜踊躍。時諸子等各白父言、
父。先所許玩好之具、羊車・鹿車・牛車、願時賜与。

是の時、長者は、諸子等の安穏に出ずることを得て、皆な四衢道(しくどう)の中の露地に於て坐して、復た障碍(しょうげ)無く、其の心は泰然(たいねん)として、歓喜踊躍(かんきゆやく)するを見る。時に諸子等は、各おの父に白(もう)して言さく、
『父よ。先に許す所の玩好の具の羊車・鹿車・牛車を、願わくは時に賜与したまえ』と。

長者は子供たちが安全に外に出て、四方に行く道の広場に座っているのを見ます。そして、安心して、嬉しくて躍りあがって喜ぶのです。子供たちは、父に向ってこのように言います。「約束してくれた羊の車、鹿の車、牛の車を今与えてください!」と。

“At this time the rich man, seeing that his sons had gotten out safely and all were seated on the open ground at the crossroads and were no longer in danger, was greatly relieved and his mind danced for joy. At that time each of the sons said to his father, ‘The playthings you promised us earlier, the goat-carts and deer-carts and ox-carts—please give them to us now!’

舎利弗。爾時長者各賜諸子等一大車。其車高広、衆宝荘校、周帀欄楯、四面懸鈴。又於其上張設幰蓋、亦以珍奇雑宝而厳飾之、宝縄絞絡、垂諸華瓔、重敷綩綖、安置丹枕。

 舎利弗よ。爾の時、長者は各おの諸子に等一(とういち)の大車を賜う。其の車は高広にして、衆宝もて荘校(そうきょう)し、周帀(しゅうそう)して欄楯(らんじゅん)あり、四面に鈴を懸(か)く。又た其の上に於て幰蓋(けんがい)を張り設け、亦た珍奇(ちんき)の雑宝を以て之を厳飾(ごんしき)し、宝縄絞絡(ほうじょうきょうらく)して、諸の華瓔(けよう)を垂れ、重ねて綩綖(おんえん)を敷き、丹枕(たんしん)を安置せり。


長者は子供たちそれぞれに、立派な車を与えたのです。その車は高く広く、様々な宝石で飾られてあり、欄干をめぐらしてあり、四面に鈴がかけてあります。またその上に天蓋があり、珍しい宝石で美しく飾りつけられています。金糸の綱にはたくさんの花房がついており、敷物は上質の布を重ねて敷かれ、赤い枕が添えられているのです。

Shariputra, at that time the rich man gave to each of his sons a large carriage of uniform size and quality. The carriages were tall and spacious and adorned with numerous jewels. Railings ran all around them and bells hung from all four sides. Canopies were stretched over the tops, which were also decorated with an assortment of precious jewels. Ropes of jewels twined around, fringes of flowers hung down, and layers of cushions were spread inside, on which were placed vermilion pillows.

駕以白牛、膚色充潔、形体姝好、有大筋力。行歩平正、其疾如風、又多僕従、而侍衛之。
駕(が)するに白牛(びゃくご)を以てし、膚色(ふしき)は充潔に、形体(ぎょうたい)は姝好(しゅこう)にして、大筋力(だいこんりき)あり。行歩(ぎょうぶ)は平正(びょうしょう)にして、其の疾(はや)きこと風の如し。又た僕従(ぼくじゅう)多くして、之を侍衛(じえ)せり。

それぞれに、真っ白い牛がその車をひくのです。その白い牛は清らかで美しく、そして強く、風の様に早く的確にひくことができるのです。それに加え、多くの使用人がこの車を守っているのです。

Each carriage was drawn by a white ox, pure and clean in hide, handsome in form and of great strength, capable of pulling the carriage smoothly and properly at a pace fast as the wind. In addition, there were many grooms and servants to attend and guard the carriage.

所以者何、是大長者財富無量、種種庫蔵、悉皆充溢。
而作是念、
我財物無極。不応以下劣小車、与諸子等。今此幼童。皆是吾子。愛無偏党。我有如是七宝大車、其数無量。応当等心各各与之。不宜差別。所以者何、以我此物周給一国、猶尚不匱。何況諸子。
是時諸子各乗大車、得未曾有、非本所望。
所以は何ん、是の大長者は財富無量にして、種種の庫蔵(こぞう)は、悉(ことごと)く皆充溢(じゅういつ)せり。而も是の念を作さく、
『我が財物は極まり無し、応(まさ)に下劣の小車を以て諸子等に与うべからず。今、此の幼童は、皆是れ吾が子なり。愛するに偏党なし。我れに是の如き七宝(しっぽう)の大車あって、其の数は無量なり。当に等心にして各各に之を与うべし。宜しく差別すべからず。所以は何ん、我が此の物を以て周く一国に給うとも、なお匱(とぼ)しからじ。何に況んや諸子をや』と。
是の時に諸子の各おの大車に乗って、未曾有なることを得るは、本の望む所に非ず。

この長者は富は無限で、様々な倉庫は一杯で満ちています。彼はこのように思うのです。私の財は極まりがない。子供たちに小さく、見劣る車を与えたくはないのだと。この幼い子たちは、皆わが子である。皆差別なく愛すべき子たちなのです。私には、このような七宝造りの大きな車を数えられないぐらい持っているのです。当然、平等にそれぞれの子供たちにこの車を与えるべきであり、決していかなる差別もしてはいけないのです。それは何故か。私がこの物を国中に与えたとしても、なお乏しくはならないからである。まして子供たちに与えたとしても乏しくはならないのです。

“What was the reason for this? This rich man’s wealth was limitless and he had many kinds of storehouses that were all filled and overflowing. And he thought to himself, There is no end to my possessions. It would not be right if I were to give my sons small carriages of inferior make. These little boys are all my sons and I love them without partiality. I have countless numbers of large carriages adorned with seven kinds of gems. I should be fairminded and give one to each of my sons. I should not show any discrimination.Why? Because even if I distributed these things of mine to every person in the whole country I would still not exhaust them, much less could I do so by giving them to my sons!


てな感じの話ですが、わかりましたでしょうか。若干くどいですが、言いたいことが伝わったかと思います。

で、釈尊はこの譬え話をしまして、長者は子供たちに嘘をついたといえるのかと舎利弗に質問をします。

こんなやつです。

舎利弗。於汝意云何。是長者等与諸子珍宝大車、寧有虚妄不。
舎利弗よ。「汝が意に於いて云何ん。是の長者は等しく諸子に珍宝の大車を与うること、寧ろ虚妄ありや否や」と。

子供たちは、それぞれ大きな車に乗って、今までに得たことのないものを得ましたが、これは、当初望んでいたものとは違っていました。舎利弗よ、あなたはこれをどう思いますか?この長者は、子供たちに平等に珍しい宝の大きな車のみ与えたことは、嘘をついたことになると思いますか?

“At that time each of the sons mounted his large carriage, gaining something he had never had before, something he had originally never expected. Shariputra, what do you think of this? When this rich man impartially handed out to his sons these big carriages adorned with rare jewels, was he guilty of falsehood or not?”

舎利弗言、不也。世尊。是長者。但令諸子得免火難全其軀命、非為虚妄。何以故。若全身命、便為已得玩好之具。況復方便、於彼火宅而抜済之。世尊。若是長者、乃至不与最小一車、猶不虚妄。何以故。是長者先作是意。
我以方便令子得出。
以是因縁、無虚妄也。何況長者自知財富無量、欲饒益諸子。等与大車。

舎利弗は言さく、「不(いな)なり。世尊よ。是の長者は、但だ諸子をして火難を免れ、其の軀命(くみょう)を全うすることを得せしめたるのみにして、虚妄と為すに非ず。何を以ての故に。若し身命を全うせば、便ち為れ已に玩好の具を得たるなり。況んや復た方便もて彼の火宅より而も之を抜済せるをや。世尊よ。若し是の長者は、乃至最小の一車を与えざるも、猶お虚妄ならじ。何を以ての故に。是の長者先に是の意を作さく、
『我は方便を以て子をして出ずることを得しめん』と。
是の因縁を以て、虚妄無きなり。何に況んや長者は自ら財富無量なりと知って、諸子を饒益(にょうやく)せんと欲して、等しく大車を与うるをや」と。

舎利弗はこのように言います。「いいえ、世尊。この長者はただ子供たちを火の難から免れさせ、命を救おうとしただけで、嘘をついたわけではありません。命を救ったからこそ、遊び玩具を得られたからです。世尊よ、もしこの長者が最も小さい車さえ与えなかったとしても、なお嘘をついた事にはならないと思うのです。それはなぜかと申しますと、この長者はまず子供たちを逃げさせるためにその方便を用いたからです。この因縁で、嘘をついたことにはならないのです。

Shariputra said, “No, World-Honored One. This rich man simply made it possible for his sons to escape the peril of fire and preserve their lives. He did not commit a falsehood. Why do I say this? Because if they were able to preserve their lives, then they had already obtained a plaything of sorts.And how much more so when, through an expedient means, they were rescued from that burning house! World-Honored One, even if the rich man had not given them the tiniest carriage, he would still not be guilty of falsehood. Why? Because this rich man had earlier made up his mind that he would employ an expedient means to cause his sons to escape. Using a device of this kind was no act of falsehood. 

それを聞いて釈尊は舎利弗にこのように告げます。

仏告舎利弗、善哉善哉。如汝所言。舎利弗。如来亦復如是。則為一切世間之父。於諸怖畏・衰悩・憂患・無明・暗蔽、永尽無余。而悉成就無量知見・力・無所畏、有大神力及智慧力、具足方便・智慧波羅蜜。
仏は舎利弗に告げたまわく、
「善き哉。善き哉。汝が言う所の如し。舎利弗よ。如来も亦復た是の如し。則ち為れ一切世間の父なり。諸の怖畏(ふい)・衰悩・憂患(うげん)・無明・暗蔽(あんへ)に於いて、永く尽くして余(あまり)なし。而も悉く無量の知見・力・無所畏を成就し、大神力、及び智慧力あって、方便・智慧波羅蜜を具足す。

よきかな、よきかな、あなたの言う通りです。舎利弗よ、如来もまた、それと同じなのです。一切世間の父なのです....(以下省略)

The Buddha said to Shariputra, “Very good, very good. It is just as you have said. And Shariputra, the thus come one is like this. That is, he is a father to all the world....


つまり、
何を何に譬えられているのがわかったでしょうか。

「長者」は仏、「子供たち」は衆生ですね。

仏がいくら真実の法を説いても、衆生がまったく理解ができないなら、燃えている家、つまり苦悩という炎が充満しているところから出すことさえできません。

よって、衆生に合わせて教えを説いて、まずは火の中から救い出すこと。それから最高の乗り物、最高の法を得させようとするのですよ、という意味のようです。

それそれの衆生(三乗)が興味のあったもの、車に譬えられていました。それが羊、鹿、牛の車です。この後の話して、羊の車は「声聞」、鹿の車は「縁覚」、牛の車は「菩薩」が興味を引き付ける車として譬えられます。

そして、釈尊は、この長者のように、初めはこの三つの車で導いて救い出し、最後はそれよりもはるかに勝る宝で飾られた最高の車を与えようとすることと同じなのですと。

ここから、釈尊がまた詩を用いで今までのくだりをもう一度説明するのですが、実はこっちの方が面白いです。

家の中に猛毒の虫とか、牛の頭をした鬼が人を喰ってわめいてたり、そんなのが一杯登場してきます。苦悩の家の恐ろしさをどんだけよというぐらいおどろおどろしく譬えていまして、設定が急にパワーアップしますが、内容はだいたい同じです。

で、なんやかんや言っていまして、結局何が言いたいかと言いますと、釈尊はこんなことを舎利弗に伝えます。

舎利弗よ、私は衆生のために、このような方便で、仏になる唯一の教えは一仏乗であると説いたのです。おまえたちがもしこの言葉を信じ受け入れたなら、皆が仏道を成就するであろう

I say to you, Shariputra, for the sake of living beings I employ these similes and parables to preach the single buddha vehicle. If you and the others are capable of believing and accepting my words, then all of you are certain to attain the buddha way.

詳しくはこのように述べています。

十方をつぶさに探し求めたとしても、仏が方便としてとった以外に、一乗以外の乗り物はないのです。舎利弗よ、あなたたちはみな我が子であり、私はすなわちこれ父なのです。
限りなく長い間 さまざまな苦悩に焼かれ苦しみに満ちた三界から、私は皆を救い出したのです。私は前に、あなたたちが悟りの境地に至ったと説いたけれども、それは生死の苦しみの輪廻から抜け出したにすぎないのであり、実際には悟りの境地には至っていないのです。

though one should seek diligently in the ten directions, one will find no other vehicles except when the Buddha preaches them as an expedient means.
I tell you, Shariputra, you and the others are all my children, and I am a father to you. For repeated kalpas you have burned in the flames of manifold sufferings, but I will save you all and cause you to escape from the threefold world.Although earlier I told you that you had attained extinction, that was only the end of birth and death,it was not true extinction.

先ほどの火宅の譬えでいうと、子供を外に出したところまでしかまだ至っていないのですよ。ということです。まだ宝で飾られた大白牛車は与えていないと。今なすべきことは、ただ仏智を得ることなのです。もしこの中に菩薩がいるならば、一心に仏の真実の法を聞くのです。諸々の仏、つまり世尊が方便を用いて教化されたすべての者は、みな菩薩なのです。

Now what is needed is simply the buddha wisdom. If there are bodhisattvas here in this assembly,let them with a single mind listen to the true Law of the buddhas. Though the buddhas, the world-honored ones, employ expedient means, the living beings converted by them are all bodhisattvas.

※仏の智慧を得るには、とにかく一心に聞くことですよ。と。

そして 、
如是等人 則能信解 汝当為説 妙法華経
是の如き等の人は 則ち能く信解せん 汝は当に為めに 妙法華経を説くべし

信じて求める衆生には妙法蓮華経を説いていきなさいと舎利弗に伝えて終わります。

People of this type are capable of believing and understanding. Therefore for them you should preach the Lotus Sutra of the Wonderful Law.

ざっくりかんたん解説

三つの車で救い出し、最高の車を与えるという譬え話、どうでしたか?

つまり、

救い出すための方便として三つの車(三乗)を使ったのであって、三乗の教えなどではなく、すべての衆生を成仏させるための一仏乗を説く事、それを聞く事なんだということを、釈尊は何とも何度も伝えようとしています。分かるまで何度も何度も言っています。

こういうことを、「開三顕一/かいさんけんいち」というようです。

英語ではreplacement of the three vehicles with the one vehicle と言います。「3つの車を取り換えて一つの車を得る」という意味です。

また、方便を使って外に出るように促すのは仏ですが、自分の力で外に飛び出すようにさせているところもポイントです。

譬喩品第三おわり! 次は信解品第四です。


〈法華経28品シリーズ〉
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